作成日:2026/7/21
青森に残された戦争の爪痕
~青森空襲の悲劇を辿る~ NEW!
【カテゴリ:自然、文化・遺産】
昨年2025年は戦後80年という節目の年でした。これを機に「東北に残された戦争の爪痕」を訪れてきました。2025年中には東北6県に残された戦争の爪痕を訪れたいと思っていましたが、残念ながら青森県と宮城県(仙台市を除く)については廻りきることができませんでした。
2026年に入ってから青森県に残された戦争の爪痕の幾つか訪れる機会がありました。文献等を調べる限り、まだまだ多くの爪痕が残されていますが、これからも機会があればそれらを訪れていきたいと思います。
①青森空襲と青森市内に残された慰霊碑

青森県においても太平洋戦争の末期、甚大な被害がありました。その中でも最大の被害と言われているのが、1945年7月28日の深夜に発生した米軍による青森市への空襲です。この空襲では62機のB29から83000発近い焼夷弾が投下され、死傷者1767名、家屋焼失18045戸、市街地の90%近くが焼け野原になるという大災害をもたらしました。
当時、青森市は石炭輸送の重要拠点であったことが空襲の対象になった主な理由だったようです。北海道からの石炭は青森港経由で本州に輸送されていたため、その港路を絶つことが目的だったようです。
右の写真は青森空襲により亡くなられた方の慰霊と復興の誓いのために作られた(2代目)平和観音像です。毎年7月28日には慰霊の集いが行われているとのことです。
●青函連絡船砲撃(伏線1)

この青森空襲には幾つかの伏線や要因があり、地方の都市としては大変に大きな惨事になってしまいました。ここではその伏線や要因を探り、青森市内に残されている慰霊碑を訪れました。
青森空襲の約2週間前、1945年7月14日から7月15日にかけて米海軍艦載機により青函連絡船12機が爆撃を受け、8隻が沈没、2隻が炎上、2隻が航行不能、352名が死亡するという惨劇が発生しました。これに多くの青森市民が危機感を抱き、郊外などに避難・疎開し始めたのです。これが次に記述する防空法による帰宅命令につながりました。
右の写真は青函連絡船爆撃の悲劇を風化させないため、戦災60年の2005年7月14日に建立されたものです。毎年7月14日には追悼の儀式が行われているとのことです。
●防空法による帰宅指示(伏線2)

当時、空襲による被害防止や被害の軽減を目的として作られた防空法というものがありました。戦局の悪化に伴い、この法律は「空襲があっても逃げずに消火活動をすること」を義務付けるようになり、市民の被害が増えた一因になったとされています。
そしてここ青森でも青函連絡船の砲撃により、市民が避難・疎開し始めたため、空襲があった際の消火活動に支障をきたすことを恐れた当時の青森県知事は「家を空けて逃げ出すと防空法により処罰する。7月28日までに家に戻らなければ断固たる処置を取る」という警告を発したのです。ここでいう「断固たる処置」とは配給を止めるということです。死活問題にもかかわるので、多くの市民は7月28日までに帰宅せざるを得ませんでした。

そしてなんと帰宅完了期限の7月28日の深夜にB29による空襲が行われたのです。もちろん米軍としては被害が最大になるようなタイミングを狙ったものと思いますが、防空法による縛りが被害を大きくしたことは間違いありません。
●回収された空襲予告のビラ(伏線3)
空襲前日の7月27日深夜にB29が青森市上空を飛来して、約6万枚のビラが捲かれました。そこには数日以内に青森市を含む11の都市のうち、4~5つの都市に対して爆撃を行うので避難するようにと書かれていました。しかし青森県知事による帰宅命令が出されていることもあり、憲兵や警察によりこのビラは回収され、多くの市民が目にすることはありませんでした。
●新型焼夷弾

青森空襲ではこれまでより殺傷力の高い新しい爆弾であるM74六角焼夷弾が使われたと言われています。M74焼夷弾は従来型の焼夷弾に黄燐を入れたもので、青森空襲が実験場になったようです。
この黄燐は空気中に露出すると自然発火し、水に触れても消えないという極めてやっかいな性質をもっていました。そのため当時、市民はバケツリレーによる消火活動を行っていましたが、この黄燐をベースに作られた新型焼夷弾の前には全く効果がなかったようです。まさに人を殺傷するために作られた武器といえそうです。全く恐ろしいことを考えるものです。
青森空襲の悲劇を次の世代へ

上記のような伏線や要因が重なり、7月28日の青森空襲では甚大な被害を及ぼしました。ある文献では元青森県知事の取った行動について責任を問う記事がありました。一方、単に任務に忠実であったという記述もありました。戦時下においては、誰が悪いというのではなく、すべては戦争の持つ不条理さと残忍さにつきると思います。
右の写真は青森駅から徒歩約40分のところにある青森市民センター内の青森空襲資料展示室です。今回、青森空襲に関する多くの情報をこの資料室から学び取ることが出来ました。上記で書いた要因・伏線以外にも、ポツダム宣言が黙殺されたことなども被害が大きくなった要因の1つにあげられていました。是非、多くの方に訪れて頂きたいと思います。

ただ大変に残念ながら、この資料室内は全面撮影禁止でした。従ってその内容をここでは掲載できません。これまでにも多くの戦争資料館の類を訪れてきましたが、「営利目的には使わない」または「個人利用に限る」と一筆書いたり、「撮影許可エリアのみ撮影可能」などの制約はありましたが、全面撮影禁止は初めてです。著作権の問題や内容が生々しい等の理由があるようです。
右の写真は後半に記述する陸上自衛隊青森駐屯地防衛館で展示されていた青森空襲翌日の写真です。情報統制に厳しい自衛隊でも撮影許可頂いた写真です。是非、青森空襲資料展示室においても差しさわりのない写真や資料については撮影許可頂ければと思った次第です。こういった生々しい写真を見ることにより、青森空襲の悲劇をより深く次の世代に伝えていくことができるのではと思いました。
➁葦ケ崎展望台(種差海岸に残された旧日本軍 軍事設備跡)

今年(2026年)の夏、「みちのく潮風トレイル」を使って、青森県を代表する景勝地である種差海岸を歩く機会がありました。
ご存じの通り、「みちのく潮風トレイル」は東日本大震災の復興を祈念して、環境省を中心に作られた東北地方沿岸の遊歩道です。青森県の八戸から福島県の相馬市までの4県28市町村をつなぐ全長1000kmを超える壮大な自然歩道です。歩くことをモチーフとしている本ブログでも「みちのく潮風トレイル」を踏破することを究極の目標としています。

さてこの「みちのく潮風トレイル」は、沿線屈指の景勝地である種差海岸に加えて、義経伝説、そして「葦ケ崎(あしげざき)展望台」という戦争の爪痕が残るところでもあります。「葦ケ崎展望台」はかつて日本軍が軍事施設として使っていた場所でした。
このあたり八戸周辺は海沿いに面していることもあり、江戸時代末期から異国船の監視所が置かれたり、太平洋戦争が始まってからは1941年に敵機の来襲を監視するための「大湊防備隊鮫角見張所」、1943年には敵機や敵艦を探知するための「電波探信儀(電探)」と呼ばれるレーダが設置されました。そして「葦ケ崎展望台」は電探の置かれていた場所でした。展望台を登ったところには電探が設置されていたと思われる台座がありました。

これを見た時、以前、岩手にある「花巻防空監視哨聴音壕跡」を訪れた時のことを思い出しました。その説明文には「高い所から敵機の来襲を双眼鏡で監視する」と書かれており、「アメリカではレーダが開発され電波によって情報を得ていた時代に、日本の設備は大変遅れていたことがわかります」と書かれていました。
既に日本ではレーダによる監視が行われており、しかも文献によると当時の日本軍のレーダ技術は相当に高いものだったようです。ただ表現はよくないですが、先に記述したM74六角焼夷弾といい、戦争により科学技術が進歩すると言われていますが、こういうことなのかなと改めて思いました。より多くの人を殺傷する、もしくはより正確に敵機を監視するといった強い動機付けのようなものがないと科学技術は進歩しないものかなと考えこんでしまいました。

展望台からの太平洋の雄大な景色は素晴らしく、今では人気の観光地になっています。実際、私が出向いた時も多くの観光客で賑わっていました。ひっきりなしに人が展望台に上ってくるため、その切れ間を縫って写真を撮影するのが一苦労でした(笑)。かつてここに軍事設備があったとはとても信じられません。
少し余談になりますが、みちのく潮風トレイルを使った種差海岸歩きは、今回、正直、失敗でした。実は種差海岸を歩くのは2回目になります。最初に歩いたのは35年前でその時は葦ケ崎展望台のことは知りませんでした。もちろんみちのく潮風トレイルもありませんでした。

今回、戦争の爪痕を探るために、再度、種差海岸を歩くことを思い立ちましたが、どうせ歩くなら35年前にはなかったみちのく潮風トレイルを活用したいと思い、鮫駅から大久喜駅まで歩いたのですが、甘かったようです。
当日の所持品として、スマホ(地図アプリ)さえあればなんとかなると思っていたのですが、特に蕪島から葦ケ崎展望台までの道がわかりにくく、かなりの部分を道路沿いを歩くことになってしまいました、途中でお会いした京都から来られたという3人組の方と少しお話させて頂きましたが、みちのくトレイル専用のマップがありそれが必需品のようでした。実際、皆さん地図をお持ちでした。また「みちのく潮風トレイル」のシンボルマーク(右の写真)を目安に歩くといいとアドバイスをもらいました。
そうだったのですか!帰宅してから改めてみちのくトレイルの入門書を読みましたが、確かにそう書かれていました。次回以降につなげたいと思います。

なお葦ケ崎から先は地図がなくても歩くことができました。ニッコウキスゲの群落、砂浜の海岸、魚港、奇岩、義経伝説の地など変化に富んだシーンが繰り広げられました。自称山好きの私としては、なぜ海岸沿いにニッコウキスゲが咲いているのかと思いながら歩きましたが・・
みちのくトレイルを使って種差海岸を歩いた時の珍道中?や八戸に残された義経伝説については、後日、別ページで掲載させて頂きたいと思います。
③陸上自衛隊青森駐屯地 防衛館
青森市内にある陸上自衛隊青森駐屯地を訪れました。目的は駐屯地内にある防衛館内に展示されている戦時中の資料や八甲田雪中行軍に関する資料などを見学するためです。また自衛隊の設備を見学するのは初めてでしたので、正直、若干の好奇心があったことも確かです。
陸上自衛隊青森駐屯地防衛館とは

陸上自衛隊青森駐屯地防衛館は、明治11年に作られた旧陸軍歩兵第5聯隊の本部兵舎がベースとなっています。当時は現在の青森高校の地にありましたが、終戦後、数度の火災などにより建物の老朽化が進んだため、昭和43年11月に解体され現駐屯地に建物の一部を縮小した上で再建されました。全国の自衛隊には17箇所の歴史的建造物があるようですが、その1つになっており、関東以北ではここだけのようです。また青森県に現存する西洋建築物としても最古級のようです。
陸上自衛隊青森駐屯地防衛館を訪れる

旅の起点は青森駅です。そこから慈恵会病院行きのバスに乗り15分、自衛隊前が最寄りとなります。なお防衛館の見学にあたっては事前の予約が必須です。また自衛隊の設備という性格上、身分証明書も必要となります。今回、アテンド頂いた自衛官の方により約1.5時間にわたり案内頂きました。大変にお世話になりました。
防衛館の建物はルネサンス様式で作られており、非常にモダンなものでした。玄関の円柱や建物の左右にある隅石と呼ばれる白い板に特色があるとのことです。設計したのは堀江佐吉という建築家で、太宰治の生家である斜陽館を設計した建築家としても知られています。

入口には天皇家の家紋である菊の紋章がありました。花弁が十六枚ありました。今回初めて知りましたが、この十六枚の菊の家紋は天皇家のみが使用を許されている最も格式の高い家紋とのことです。ちなみに各宮家の家紋は十四枚の葉入りの菊のようです。
雪対策のため、一階には雁木が設けられていました。また一階から二階への階段は当時のまま残されており、階段を上るとミシミシと音がしました。館内は写真撮影可でした。

防衛館は6つの展示室に分かれていました。
第1展示室では、映画でも有名になった八甲田雪中行軍に関する資料が中心に展示されていました。ここの兵舎のベースとなっている旧陸軍歩兵第5聯隊は、八甲田雪中行軍で多くの犠牲者を出した聯隊そのものです。なおこの八甲田雪中行軍については、行軍の目的地であった田代温泉にかつて出向いたことがあることや(「最強の秘湯」ご参照)、八甲田山18峰のうち多くを登頂したことなどより、大変に思い入れのある内容です。当日、訪れた八甲田雪中行軍資料館の内容と合わせて是非別ページでご紹介させて頂きたいと思います。

第2展示室では、第5聯隊の上位組織にあたる第八師団と第八師団が関わった日露戦争(黒溝台会戦)の展示がされていました。第八師団はこの黒溝台会戦において勝利に導いたことから明治天皇より「国宝師団」の称号を頂いたとのことです。
自衛官の説明を聞きながら、「そういえばかつて日本はロシアに勝利したことがあったな」、「よく勝てたな」、「でもそれがその後の破滅につながったのかも」、「現在のロシアとウクライナの戦争を見ていると、今だと泥沼になっていたに違いない」などといろいろ考えてしまいました。
第3展示室は軍服コーナになっていました。袖の太い服装をしている方が階級が上であることを知りました。

そして第4展示室です。ここでは戦時資料コーナとして、郷土出身者の軍人の遺品、身に着けていたものなどが展示されていましたが、そのあまりの生々しさに衝撃を受けてしまいました。案内頂いた自衛官の方もこのコーナが一番重い内容ということで言葉を詰まらせていました。
何か遠い昔の出来事のようですが、80年前に確かにこの日本で戦争があったこと、そして今でも世界のどこかで戦争が起きて多くの罪のない人が被害にあっていることを考えると暗澹たる気持ちになりました。今更ながらなんと今は平和な時代に生きているのだと改めて実感した次第です。



第5展示室では、現代、自衛隊が行っているPKO、災害派遣等の活動、第6展示室では青森駐屯地からも協賛を得ながら参加しているねぶた祭りに関する展示がありました。
偶然ですが、私が訪れた前日には、ねぶたの「台あげ作業」に関するNHKのニュースが放映されていました。台あげ作業とは制作された大型ねぶたを運行用の台車に乗せて完成させる作業のことを指すようです。青森の街は既にねぶた祭りにむけたカウントダウンが始まっていました。

最後にバッジを頂き、帰路につきました。
今回は旧陸軍歩兵隊という、これまでとは違った観点から戦争の爪痕を見ることができて大変に参考になりました。そして戦争遺跡を訪れるたびに毎回思うことですが、戦争のことは実は何も知らなかったということです。これからも戦争の爪痕を訪れて、微力ながらもその記録を残していきたいと今回も思いを新たにしました。
なお上記以外にも青森県に残る戦争の爪痕を訪れました。後日、掲載していきたいと思います。訪問先については、平和を祈念する同志のブログなども参考にさせて頂きました。また弘前にも多くの爪痕が残されていることがわかり、今後、是非、訪れたいと思います。

全くの余談ですが、今回、予約の時間より早めに到達したので近くのコンビニで時間をつぶしていましたが、コンビニの入口には熊が入ってこないように扉を必ず締めてほしいという張り紙がされていました。またドアは自動ではなく手動でした。コンビニの店員にお伺いしたところ、時々、熊が出没するようです。
【関連情報】
①青森市営バスと青森市バス

今回、久しぶりに青森を訪れたのですが、青森市営バスと青森市バスという名前が類似した2つのバス路線があり、少し混乱しました。既にご存じの通り、青森市営バスは文字通り青森市が運営しているバス路線、青森市バスは市営バスとしての維持が困難になった不採算路線を民間事業者に委託している路線のようです。青森市バスは2012年から運行を開始したようで全く知りませんでした。
青森市バスは青森市のコミュニティバスと書かれていた記述もあり、それであれば、最近、頻繁に利用しているコミュニティバスと理解はしましたが、それにしても名前が紛らわしいです・・・