作成日:2025/12/1

 

福島に残された戦争の爪痕 

 

【カテゴリ:歴史・文化遺産】


戦後80年

 

 今年2025年は戦後80年にあたります。80年を過ぎた今でも日本中のいたるところに戦争の爪痕が残されています。本ブログの今年の重要なテーマとして、東北地方に残る戦争の爪痕をたどり、それを記録として残すこととしました。今回は福島県に残された戦争の爪痕を訪れました。

 

関連記事「東北地方に残された戦争の爪痕

 

駆逐艦澤風のタービン機関(三崎公園)
駆逐艦澤風のタービン機関(三崎公園)

  福島県においても太平洋戦争で甚大な被害がありました。その犠牲者は6万7千人と言われています。特に被害が大きかったのは、軍都と呼ばれていた郡山市周辺で、アメリカ軍のB29による爆撃を受けました。当時、郡山には郊外に航空基地、また市内では風船爆弾や落下傘などが製造されていたため、空襲の標的となったようです。

 

 今回、郡山市に残る戦争遺跡を中心に、浜通りに残された遺跡などを訪れました。調査をする限り、まだまだ訪れていないところが多いこともわかってきました。戦後80年を過ぎた後も体力の続く限りそれらの地を訪れて、少しでも記録として残していきたいと思います。


(1)郡山市内に残された戦争の爪痕

 

①平和の女神像 

平和の女神像
平和の女神像

  郡山市では1945年の4/12、7/29、8/9、8/10の4回に渡り、約200機のB29爆撃機の空襲を受けました。その中でも最も被害が大きかったのが、4/12の空襲と言われています。数十機のB29爆撃機が来襲、海軍が4機の戦闘機で対抗しましたが、いかんせん多勢に無勢、多くの軍需工場で被害を受けました。この空襲により、学徒動員された学生を中心に400名もの犠牲者が出たと言われています。右の写真は、郡山市総合体育館(2025年時点で命名権により「宝来屋ボンズアリーナ」という名称)にある「平和の女神像」です。元々、昭和28年に戦後の復興と世界平和の願いを込めて郡山駅前に完成しましたが、駅前再開発のために1975年に移設されたとのことです。 

➁如宝寺と常傳寺にある戦没者慰霊碑

如宝寺学徒動員慰霊塔
如宝寺にある学徒動員慰霊塔

  郡山駅から徒歩15分のところに真言宗の如宝寺があります。このお寺は807年に建立されたと言われており、国の重要文化財もある由緒あるお寺です。このお寺の入り口近くに、学徒動員を中心として郡山空襲で犠牲になった26名の慰霊塔がありました。

 

 郡山には軍需工場が集まっていましたが、空襲当時、戦場に駆り出された男性工員の代わりに、福島県内から中学生や女子学生が動員されていました。その多くが空襲により命を奪われたと言われています。何の罪もない若い民間人が、軍需工場に駆り出されていたがために命を落とす。改めて戦争の残忍さを感じました。なお毎年4月12日には、亡くなった学徒動員の慰霊祭が如宝寺で行われるとのことです。

 

 また郡山駅から徒歩15分のところに臨済宗のお寺常傳寺があります。ここでは郡山空襲で犠牲になった住民22名の慰霊碑が建てられていました。

傳傳寺慰霊碑
傳傳寺慰霊碑
傳傳寺慰霊碑
傳傳寺慰霊碑


(2)浜通りに残された戦争の爪痕

 

①勿来(なこそ)にある風船爆弾基地跡

常磐線の勿来駅
常磐線の勿来駅

  太平洋戦争の末期、1944年11月から1945年4月まで、いわき市の勿来地区他から米国本土に向けて風船爆弾が放たれました。直径10メートルほどの気球(もちろん無人です)に焼夷弾をつるし、上空1万メートルの偏西風に乗せアメリカ大陸まで飛ばし投下するというものです。「ふ」作戦と呼ばれていたようです。打ち上げ場所として、太平洋に近く、かつ敵から見つかりにくい山に囲まれた場所が選ばれたということです。その1つがいわき市の勿来地区でした。勿来地区以外にも日本の3カ所から合計9300発が放たれたといわれています。

風船爆弾基地案内図
風船爆弾基地案内図

  気球は地元産のこんにゃくイモを使って遠野産の和紙を張り合わせて作ったとのことです。当時、郡山近辺の軍需工場で働く女学生は気球製造に携わっていましたが、何を目的に何を製造していたかは知らされていなかったようです。何も知らない女学生に地元の名産を使って爆弾を作らせる、ここでも戦争の残忍さを感じます。

 

 なお風船爆弾は広い意味での大陸間爆弾?と言えそうですが、爆弾そのものの効果は決して高くはなかったようです。ただ空から爆弾が舞い降りてくるという恐怖感を敵に与えたという意味で、それなりの効果はあったようです。誰が悪いとはいいません。戦争末期の敗北濃厚な状態とはいえ、残酷なことを考えるものです。

放球監視所と思われるところに向かう
放球監視所と思われるところに向かうが・・断念

  常磐線勿来の駅から徒歩10分程度のところに風船爆弾基地案内図がありました。この案内板は地元の団体が2008年によって建てられたとのことです。案内板によると周辺に引き込み線、防空壕、放球監視所などがあったようです。ただ残念ながら既に現存するものは無いのか、もしくは私の地図読解力では読み取れなかったのか、何がどこにあるのかわかりませんでした。それと思しき引き込み線のような跡があったので少したどってみましたが、ある段階から徒歩困難となりました。防空壕や倉庫、放球監視所跡にも行こうとしましが、工事現場に突き当たったり、民家に入りそうになったりしたため最終的に断念しました。 

引き込み線らしき跡をたどるが民家に入りそうになり断念
引き込み線らしき跡をたどるが民家に入りそうになり断念

  なお常磐線の勿来駅の隣の大津港駅近辺にも風船爆弾跡があると聞きましたが、そこはもう茨城県になります。ここはぜひ東北地方(東北6県)に残された戦争の爪痕に拘りたいので、大津港にある風船爆弾跡には出向きませんでした。 

 

 残念ながら風船爆弾跡については、現物として残っているものは確認できず、この歴史ある(注:後述ご参照)勿来の地にあったらしいという確認程度に終わりました。なおここで「歴史ある」と書いたのは、このあたり一帯は、奥州三古関の1つである勿来の関があったされる地です(関連記事「勿来の関」)。

勿来の関跡(2020年撮影)
勿来の関跡(2020年撮影)

➁泉地区にある沈船防波堤跡

アクアマリンふくしま
アクアマリンふくしま

  常磐線の泉駅からバスで20分のところに小名浜漁港があります。このあたりは「イオンモールショッピンセンター」や「環境水族館アクアマリンふくしま」、「ららみゅう」と呼ばれるお土産ショップなどがあり、休日になると多くの家族連れでにぎわうところです。

 そしてこの小名浜港に、なんとかつての駆逐艦2隻が沈められているという話を聞きました。ただ沈められているといっても、敵の砲撃を受けて沈められたわけではなく、自ら沈んだというものです。

沈船防波堤の歴史
沈船防波堤の歴史案内板

  戦前より小名浜港は多くの漁獲量をほこる港として知られていましたが、戦後の食糧増産に向けて一層の漁獲量をあげる必要がありました。また常磐炭田より産出される石炭輸送のためにも早急な湾岸整備が必要でした。ところが戦後、資材等の物資が不足していたこともあり、資材節減と工期短縮のために艦船を海に沈めてそれを土台とする方法をとったのです。その意味では戦争遺跡と呼ばないかもしれませんが、戦争が残した爪痕として記録を残しておきたいと思います。昭和23年4月に駆逐艦「澤風」、同年8月に駆逐艦「汐風」が沈められました。ららみゅうの近くに案内板があったので、それを頼りに沈船跡を確認に行きました。

澤風が沈められたと思われる場所
澤風が沈められたと思われる場所

  まず「澤風」です。小名浜漁港のバス停から臨海道路2号線を歩くと、MAP上ではそれらしき地点に到着しました。ただ澤風が沈められた場所には以前は魚市場があったようですが、東日本大震災で被害を受けて別の場所に移転となりました。その際、澤風は撤去されたようです。そのため今では防波堤のみがあり、どのあたりに沈められたのかわかりませんでした。このあたりに沈められたと思われる場所を撮影しましたが、あっているかどうか自信はありません。釣りをしている人がいたので聞いてみましたが、全く何のこと?という感じでした。

 

 漁獲量をあげるための礎として駆逐艦が沈められ、今ではどこにあるのかわからず、その近くで多くの人が釣りをしている、なんとも物悲しくなるような風景でした。なお澤風に搭載されていたタービン機は近くの三崎公園にありました。後ほどご紹介させて頂きます。

小名浜漁港よりららミュウを見る
小名浜漁港よりららミュウを見る

  次に汐風ですが、こちらの方は案内図を見てその場所がわかりました。お土産処「ららミュウ」のまさにそこの土台となっている地でした。

 

 日本にはかつての駆逐艦を沈めてそれを土台とした漁港が、小名浜漁港以外にもあることを、今回、初めて知りました。今後、港へ行く機会があれば意識してその成り立ちを確認するようにしたいと思います。

③三崎公園にある澤風のタービン機

澤風タービン機
澤風タービン機

  かつての駆逐艦「澤風」がどこに沈められたのか痕跡を確認することができませんでしたが、「澤風」から取り出されたタービン機が、近くの三崎公園内に設置されていました。元々、東日本大震災で被害を受け、魚市場が別の場所に移転となった際、澤風は撤去され、タービン機は破棄される予定でしたが、遺族会等のご尽力により、三崎公園に設置することになったとのことです。

 

 タービン機は三崎公園のシンボルである「いわきマリンタワー」のすぐ隣に設置されていました。タービン機の隣には「澤風の孤高を慕う波がしら」と書かれた句碑が建てられていました。実は三崎公園に訪れたのは今回、2回目でしたが、前回訪れた時には、このタービン機のことは全く気づきませんでした。近くは芝広場になっており、多くの家族連れでにぎわっていました。

タービン発電機の横にある句碑
タービン発電機の横にある句碑


(3)田村市にある平和祈念資料展示室

 

田村市歴史民俗資料館
田村市歴史民俗資料館

  これまで東北地方のいろいろな街を訪れてきましたが、新しい街を訪れる際は必ずその市町村についての郷土資料館等の博物館を訪れて、初めて訪れる街の概要を理解するようにしてきました。以前に磐越東線沿いにある鍾乳洞を訪れた際も、田村市歴史民俗資料館に立ち寄ったのですが、その隣に平和祈念展示室という小さな建物がありました(関連記事「入水鍾乳洞」

 

 この平和祈念展示室は、主に田村市を中心としてこの近辺から戦争に駆り出され、犠牲になった方を慰霊するために遺族会が建てられたものです。ここ田村市でも先の戦争で多くの犠牲者がでました。その数は2078名と言われていて、当時の田村市の男子の人口の1割にあたるようです。その多くが中国大陸での戦いで命を落としました。平和祈念展示室では、田村市出身の軍人の資料、徴兵制度、招集と出征、学童疎開、B29による爆撃などが展示されていました。入口に書かれた遺族会の言葉(下記ご参照)がずしりと胸に響きました。

平和祈念展示室
平和祈念展示室
遺族会より
遺族会より


(4)中通り(南部)に残された戦争の爪痕 26/5/21改定

 

①アウシュビッツ平和博物館 

アウシュビッツ平和博物館
アウシュビッツ平和博物館

  第1次世界大戦後のヒトラーの台頭とユダヤ人虐殺の件はご存じのことと思います。ユダヤ人というだけで600万人もの人が虐殺にあった惨劇です。アウシュビッツ強制収容所はナチスドイツがポーランドに建設した最大の収容所でした。ここで約150万人もの命が失われたと言われています。

 

 アウシュビッツ強制収容所は第2次世界大戦終了後、ユネスコ世界遺産に登録され、現在はポーランド政府が国立博物館として管理しています。そして白河市にあるアウシュビッツ平和博物館は、ポーランドの国立博物館から提供された関連資料などを常設展示する日本で唯一の博物館と言われています。

 なぜこの地にアウシュビッツ平和博物館があるのか、その展示内容、アクセス方法などについては、(番外編)アウシュビッツ平和博物館に記載しましたのでご参照頂ければと思います。

➁西郷村にある旧陸軍 軍馬補充部跡 

西郷村歴史民俗資料館
西郷村歴史民俗資料館

  福島県の南部に西郷村という比較的小さな村があります。西郷村にある西郷村歴史民俗資料館は、かつて軍馬の補充部があった建物を活用した資料館です。軍馬補充部とは、戦前、日本の陸軍省の外局の1つでした。戦争で使う馬を育てたり訓練したりすることを目的として、1874年(明治7年)に前身である軍馬局が作られました。本部は東京にあり、多い時には全国に支部が8ケ所あったようです。白河支部は明治30年に設置されました。

 

 1945年に陸軍省廃止に伴い軍馬補充部も解散となりました。解散後は、いろいろな団体に利用されていましたが、平成4年からそのままの形で西郷村歴史民俗資料館となりました。軍馬補充部白河支部の事務所をそのまま活用したもので、全国的にも貴重な建物のようです。ここを訪れた時の内容については、「西郷村にある旧陸軍省軍馬補充部跡」に記載していますので、ご参照頂ければ幸いです。


(5)福島県立博物館(企画展:私たちの戦争体験)

 

福島県立博物館「私たちの戦争体験」
福島県立博物館「私たちの戦争体験」

  今年2025年は戦後80年にあたるということで、各地でイベントが行われていました。福島県に出向いたときも、丁度、福島県立博物館(会津若松市)で「私たちの戦争体験」という企画展が開催されていたため、急遽、予定を変更して立ち寄りました。

 

 企画展では福島出身の軍人で編成された65連隊に関する資料が展示されていました。もともと仙台市から駐屯地の誘致があり、当初は仙台城の二の丸に司令部がおかれていましたが、仙台空襲で焼かれたためこの地で65連隊として編成されたようです。

福島県立博物館「私たちの戦争体験」
福島県立博物館「私たちの戦争体験」

  企画展では満州事変に始まり終戦に至るまでの戦争の経緯、主に福島県から戦争に駆り出された軍人に関する資料が展示されていました。

 その中で目を引いたのが、特撮で有名な円谷英二です。ご存じの通り円谷英二は、怪獣映画やウルトラマンの特撮の監督として有名で、現在の福島県の須賀川市出身です。太平洋戦争が始まる前の1921年から2年間、65連隊に属していたようです。そしてその時の経験をもとに、1942年に「ハワイマレー沖海戦」という映画を担当して高い評価を受けました。

 実は円谷英二が目についたのは、本ブログの別ページにて、須賀川市が生んだ偉大な円谷と題して、マラソンで有名な円谷幸吉とともに円谷英二を取り上げたことがあるからです。その時に円谷英二について調べたつもりでしたが、軍隊に属していたことは見逃していました。

 

 リアリティに拘る円谷英二には多くのエピソードが残されています。その中でも有名な逸話は、「ハワイマレー沖海戦」の中での真珠湾攻撃の特撮シーンです。あまりのリアルさのため、戦後、GHQが記録フィルムと勘違いしたそうです。今回の展示を見て、円谷英二の連隊での経験が生かされたのかなと思いました(関連記事「怪獣とマラソンの街」)。

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 今回、事前に調べた限りでの福島に残された戦争の爪痕を訪れました。風船爆弾、沈船防波堤等、これまでの戦争の爪痕にはなかった遺跡を新たに知ることができました。ただ浜通りにある戦争の遺跡については、必ずしも現物を確認できたわけではないので、少しフラストレーションの残る旅になりました。

 文献等を調べる限り、まだまだ多くの戦争遺跡があることがわかりました。今年(2025年)が過ぎた後も体力の続く限りそれらの遺跡を再度訪れて記録として残していきたいと思います。 

 

 

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