作成日:2026/7/1
大玉村に残された酒呑童子伝説 NEW!
~野内与吉のふるさと大玉村を歩く~
【カテゴリ:自然、文化・遺産】
福島県の中通りに大玉村という比較的小さな村があります。この大玉村には鬼伝説で有名な酒呑童子のもう1つの伝説が残されていると聞き、今回訪れました。きっかけは北上にある鬼の館に出向いた時に学芸員の方に聞いた言葉です。それまで鬼伝説といえば岩手県に多く残されていると思っていましたが、福島県にも多くの鬼伝説が残されているとのことです(関連記事「岩手県に残る鬼伝説」)。現時点でまだそれほど多くの鬼伝説は見いだせていませんが、確かに幾つかの鬼伝説が残されていることがわかってきました。その中から今回は、大玉村に伝わる酒呑童子を取り上げたいと思います。
大玉村について

最初に大玉村について簡単にご紹介させて頂きたいと思います。大玉村は日本百名山で有名な安達太良山と阿武隈川に囲まれた風光明媚な街です。大玉村にはかねてより以下のような理由により、是非訪れたいと思っていました。
・福島県の各自治体が人口減少に苦しむ中、大玉村は西郷村とともに人口が増えている唯二の市町村なのです(除:原発の地域)。その要因は国道4号や高速道といった幹線が縦断しており交通の便がいいこと、福島市と郡山市という福島を代表する都市に挟まれていてベッドダウンになっていること、子育て支援や定住支援に積極的に取り組んでいることなどがあるようです。
・そしてなんと世界遺産で有名なマチュピチュと世界で唯一の友好都市であるのです。そのきっかけとなったのが大玉村出身でマチュピチュの村長にもなった野内与吉が大きく貢献しています。野内与吉については後半で触れたいと思います。
酒呑童子伝説とは

酒呑童子(しゅてんどうじ)については、ご存じの方も多いと思いますが、最初に本家?の酒呑童子について簡単に触れたいと思います。酒呑童子は平安時代に京都の大江(おおえ)山などを根城にして、茨木童子などの部下を従え、多くの人々を襲ったり神隠しに合わせたりと悪行の限りを尽くした鬼です。日本最強最悪の鬼であるとも言われています。大酒呑みであったところから、手下が「酒呑童子」と呼んでいたようです。最後は源頼光と頼光に仕えた渡辺綱を始めとした4人の最強武士、いわゆる頼光四天王によって首を切断され退治されました。その時に首を刎ねた太刀は「童子切」と呼ばれており刀剣ファンの間でも有名なようです。そしてなんと国宝にも指定されているとのことです。また酒呑童子をモデルとした浮世絵や屏風絵、小説、さらに最近ではゲームなどもあるようです。
大玉村に伝わるもう1つの酒呑童子伝説とは

悪名高き酒呑童子ですが、その出自についてはいろいろな説があるようです。滋賀県の伊吹山の麓で生まれ育ったという説、奈良県のお寺の稚児であった説などです。そしてその1つが安達太良山の鬼だったというものす。
以下は「あだち野のむかし物語」よりの「超」抜粋版です。
~昔、原瀬村才木(現二本松)が深堀に行く街道に、安達太良山に住む鬼が現れて旅人や山仕事に行き帰る村人を襲っては困らせていました。困った村人たちは集まり、大三という若者に退治を託すことになりました。大三の説得に一度は鬼は山へ戻ることになりましたが、その後も村人を襲うことは繰り返され、ついに都の近くの大江山に住み着き、再び、盗みや人殺しなどの悪さをするようになりました。ついには源頼光の家臣である渡辺綱に片腕を切り落されます。酒呑童子はお姿に変装して腕を取り返して大江山に逃げ戻りました。その後、源頼光らにより追われ、故郷の安達太良山まで逃げてきましたが、追ってきた頼光に首を刎ねられて、首は才木にある鬼石まで飛んで行きました。死骸は埋められ頼光が乗ってきた馬も倒れ、その場所は「馬尽」と呼ばれています。二つの墓は近くの鬼松山来迎寺に移されました~
大玉村を訪ねる

今回、大玉村に伝わる酒呑童子の伝説を探るために、大玉村を訪ねました。なお大玉村には鉄道の路線がありません。旅の起点は本宮市にある本宮駅になります。訪れた先は大玉村役場、来迎寺、馬尽などの地域です。いずれも駅より遠く、村営バスが走行されているようですが、今回は時間があわず、徒歩で約1時間かけて向かいました。
なお今回、大玉村役場の職員の方や来迎寺の住職には大変にお世話になりました。
さて大玉村役場では上記の「あだち野のむかし物語」や周辺に残る以下のような非常に興味深いお話をお伺いすることができました。
①大玉村はかつての旧大江村等が母体になっている

興味深い話の1つが大玉村の歴史についてです。右の図の通り、大玉村はかつて明治時代にあった「大江村」、「椚山村」、「玉井村」の3つの村が合併してできた村です。ここで注目したいのが、「大江村」です。この大江村はまさに酒呑童子伝説の舞台になった大江村そのものです。たまたま名前が一致しているだけなのでしょうか、もしくは酒呑童子伝説に関連しているのでしょうか、非常に興味深いところです。
なお資料によると「大江村」は「おおえむら」と呼ばずに「だいえむら」と書かれている文献もあるようです。伝説との関連がどうなのか少し疑問が残るかもしれません。
➁来迎寺の近くにある馬尽(まつくし)という地区
興味深い話の2つ目が馬尽という地名です。大玉村に伝わる酒呑童子の伝説によると「酒呑童子は大江山に逃げ戻りました。その後、源頼光らにより追われ、故郷の安達太良山まで逃げてきましたが、追ってきた頼光に首を刎ねられて、首は才木にある鬼石まで飛んで行きました。死骸は埋められ頼光が乗ってきた馬も倒れ、その場所は馬尽と呼ばれています」とあります。大玉村の東地区、次に出てくる来迎寺近辺に「馬尽」と呼ばれる地名があります(右地図ご参照)。これも偶然なのでしょうか。もしくは酒呑童子伝説に関連しているのでしょうか。非常に興味のあるところです。
③酒呑童子と馬が眠るという来迎寺

同じく酒呑童子の伝説によると「酒呑童子は追ってきた頼光に首を刎ねられて、首は才木にある鬼石まで飛んで行きました。死骸は埋められ頼光が乗ってきた馬も倒れ、その場所は「馬尽」と呼ばれています。二つの墓は近くの鬼松山来迎寺に移されました」とあります。
今回、馬と酒呑童子が眠るとされている来迎寺を訪れました。最寄りの駅は東北本線の杉田という駅です。来迎寺までは徒歩約40分でした。ただ大変に残念ながら来迎寺では源頼光と馬の墓を確認することができませんでした。住職にご対応頂いたのですが、そのようなものはないということでした。

住職さんによると、酒呑童子に関連するものとしては、お寺の入口付近にある大きな石がそれに該当するということでした。以前に山の方にあったものを移設してきたということです。酒呑童子の伝説によると「酒呑童子は追ってきた頼光に首を刎ねられて、首は才木にある鬼石まで飛んで行きました」とあるので、その鬼石のことでしょうか。残念ながらこのあたりについても住職さんからは聞き出すことができませんでした。
あだち野のむかし物語によると鬼石は来迎寺とは別の方向にあるようです。このあたりは少し事前の準備不足だったようです。大玉村の鬼石と来迎寺にある石についてもう少し調べたいと思います。

これまで訪れてきた内容が凝縮された旅でした

さて今回、大玉村並びに酒呑童子伝説を調べていく中で、これまでに東北地方を訪れてきたいろいろなものが凝縮されていた思いがしました。
・大玉村に伝わる酒呑童子伝説の中で、酒呑童子は渡辺綱によって片腕を切り落され、その後、お姿に変装して腕を取り返しとなっていますが、これは村田町に伝わる鬼伝説と同じです。全くの偶然なのか非常に興味あるところです(関連記事「村田町に伝わる鬼伝説」)。
・大玉村(旧玉井地区、大江地区、椚山地区)はかつて蒲生氏郷の支配下にあったという記述がありました。蒲生氏郷についてもその足跡を辿ったことがあり、大変に親しみがわきました(関連記事「蒲生氏郷の足跡を辿る」)

・今回訪れた役場の近くに大玉村の名所でもある相応寺がありますが、調べたところ徳一という僧により創建されたようです。徳一についても会津の古刹慧日寺を開いたということで取り上げたことがあります(関連記事「会津の古刹慧日寺」)。
この相応寺の枝垂れ桜は非常に見応えがあると聞きました。機会あれば是非、訪れたいと思います。
いろいろなことがそれぞれ関わっているようです。大玉村役場から本宮駅までの長い道のりをなぜか気分上々(笑)で戻りました。
(予告)そして鬼伝説は続く・・

今回取り上げた大玉村に伝わる鬼伝説以外にも福島県には多くの鬼伝説が残っていました。写真は二本松市にある黒塚ですが、ここには旅人の血肉を喰らったという鬼婆伝説が残っています。
是非、この鬼婆伝説についても取り上げたいと思います。
【関連情報】
①是非、立ち寄りたい周辺のお勧め場所
<大玉村歴民俗資料館(野内与吉に関する資料)> お勧め!

野内与吉をご存じでしょうか。野内与吉は大玉村出身で若い頃から海外雄飛を志し単身ペルーに渡り、マチュピチュの発展に貢献した人物です。第2次世界大戦で日本人が拘束される中、現地人により守られたという史実もあるようです。
そして野内与吉の貢献が関係しているのか、マチュピチュは数ある誘いを断り世界中で大玉村とのみ友好条約を締結しました。
実は2016年の夏に二本松市を訪れた時に、丁度、駅前でマチュピチュ展が催しされており、その時に初めて野内与吉のことを知りました。それ以来、野内与吉に関する資料などを探っていましたが、今回、訪れた大玉村の役場の近くにある大玉村歴史民俗資料館に展示されていると聞き、立ち寄りました。
現在であれば単身で海外渡航することはあっても、今から百年以上前、しかも日本の裏側にあるペルーに単独で渡るというのは大変な勇気が必要だったと思います。その理由は何だったのでしょうか。ある文献によると、ペルーはたまたまで、知らない世界を知りたいという野内与吉の好奇心と冒険心が背景にあったということです。う~ん、そうだとしても、その後、半世紀近くもその地に居続けるものでしょうか。