作成:2025/7/15予定
秋田に残された戦争の爪痕 NEW!
<カテゴリ:歴史・文化>
はじめに
今年(2025年)は戦後80年にあたるということで、これまでに訪れてきた東北地方に残されている戦争の爪痕を振り返ったり、もしくは追加で出向いたりしてその記録を残すようにしています。今回は秋田に残された戦争の爪痕をご紹介させて頂きたいと思います。
秋田県も先の大戦で多くの被害を被り、県内のいろいろな所にその爪痕が残されています。その中で最も大きな被害は土崎空襲と言われています。1945年の8月14日ですから、なんと終戦の日の前日になります。米軍の約130機によるB29が12000発以上の爆弾を投下して、土崎地区に甚大な被害をおよぼしました。民間人合わせて250名近くの死者が出たと言われています。また建物も大きな被害を受けました。終戦日の前日ということもあり、「日本最後の空襲」とも言われているようです。
右の写真は土崎空襲の犠牲者を追悼するために1979年に建立された「平和を祈る乙女の像」です。土崎港地区にあります。
なぜ秋田市の土崎地区が標的になったのでしょうか。当時、秋田市中西部には八橋油田を始めとした多くの油田がありました。八橋油田は国内生産量の70%以上を占めていたと言われています。中でも当時、日本で最大の産油量であった日本石油秋田製油所が狙われたようです。また土崎港は鉄道輸送、海上輸送ともに便利な立地条件であったため、そこが標的になった理由でもあったようです。
ここでは大きな戦争被害のあった土崎地区を中心に、その爪痕をご紹介させて頂こうと思います。
土崎みなと歴史伝承館で土崎空襲について学ぶ
土崎地区での空襲については、土崎港の近くにある「土崎みなと歴史伝承館」で詳しく展示されています。奥羽本線土崎駅から徒歩10分のところにあります。ただこのあたりは以前に出向いたことがあるのですが、私の旅の日誌には、土崎みなと歴史伝承館に行った記録がありませんでした。調べてみたところ、2018年3月に開館したようです。土崎神明社祭の曳山祭りなど地元の展示と合わせて、土崎空襲についての展示がされているとのことです。早速出向きました。
まず日本石油秋田製油所が狙われた背景について解説されていました。日本石油秋田精油所は、当時、内地では10番目の大きさでしたが、秋田市周辺の油田からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37%を担っていました。さらに他の精油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたため、最も重要な攻撃地にされたとのことです(土崎みなと歴史伝承館展示資料より)。
なるほどそうだったのですか。実は大変にお恥ずかしい話ですが、私はそれまで、秋田県がかつては「油田王国」と呼ばれ、多くの原油を産出していたことを知りませんでした。今回、秋田県に残る戦争の爪痕と合わせて、秋田県での原油産出状況と新旧の代表的な油田(跡)を訪れることにしました。この内容は別ページに記載しましたので、ご参照頂ければ幸いです(院内油田と八橋油田~秋田の油田の歴史を辿る)。
また土崎みなと歴史伝承館では被爆倉庫が展示されていました。この被爆倉庫は旧日本石油秋田精油所の一角に空気圧縮機などが置かれていた建物で、土崎空襲で被災した建物の中で平成29年に解体されるまで唯一残っていた建築物のようです。そのためいつしか「被爆倉庫」と呼ばれるようになったようです(土崎みなと歴史伝承館展示資料より)。
最初、見た時は、よく火事現場に残された建物の跡と思いました。これが土崎空襲の跡と知り、そのあまりの生々しさに愕然としました。土崎空襲の悲劇を後生に残すために、柱や梁の一部が「土崎みなと歴史伝承館」に移築されてきたようです。
そして土崎みなと歴史伝承館では、土崎空襲の被爆者の体験談を後生に残すために、地元の被爆者市民会議の皆さんによる語り継ぎなどの活動をされているとのことです。丁度私が出向いた日も、午後から語り継ぎがあるということで、地元の高校生が既に何名か来館されていました。私もご一緒させて頂こうかと思いましたが、当日の午後に別の場所に出向く予定がありましたので、伝承館の職員の方に語り継ぎのビデオを見せてもらいました。
これ以外にも不発弾処理された爆弾の実物や、亡くなった小学生の学童服なども展示されています。是非、多くの方に見て頂きたい内容です。ちなみに入館料は無料でした。
雲祥院を訪れる
土崎みなと歴史伝承館から2.4km 徒歩で30分のところに雲祥院というお寺があります。ここのお寺は臨済宗のお寺なのですが、実は先にご紹介した土崎の旧日本石油秋田精油所がアメリカ軍のB29による爆撃にあった際、県内で唯一の戦災寺院だったとされています。そしてその遺跡が「首なし地蔵」や「宝篋印塔」などとして現在でも残っており、学校の授業にも取り入れられているようです。
写真にある宝篋印塔は爆撃により一部が削ぎ取られたものです。ご存知の通り、宝篋印塔は供養塔などに使われる仏塔の一種で、ここ雲祥院の宝篋印塔はなんと南北朝時代のもので、日本最古と言われているようです。ただその由緒ある宝篋印塔も戦争により無残な姿になってしまいました。悲惨な戦争の爪痕として多くの方に見て頂きたい内容です。
なお私は土崎みなと歴史伝承館より徒歩で向かいましたが、最寄りの駅は奥羽本線の上飯島駅です。徒歩9分程度です。
本荘郷土資料館「昭和100年平和を願う心」企画展を訪れる
今年2025年は終戦80年にあたるということで、各地でその記録を展示する催しが行われています。私が秋田県に出向いていた時も、丁度、由利本荘市にある本荘郷土資料館で「昭和100年平和を願う心~戦後80年忘れてはならない戦争の悲劇」という企画展が開催されていたため、急遽、予定を変更して、立ち寄りました。この企画展は、今年が戦後80年にあたるということで、戦争の記憶が遠のきつつある中、今後、未来へ語り継ぐべきものは何かを問いかける主旨で開催されたということです。
そして展示されている内容もこの問いかけに応えるように大変に見応えのあるものでした。
企画展ですので決して広いスペースではありませんでしたが、主にこの由利地区での「出征」、「銃後(戦場の後方支援)の人々の様子」、「学徒動員」等々の展示が所狭しと展示されていました。またこの由利地区から特攻隊として出陣した兵士についての展示もありました。毎回ですが、特攻隊兵士が家族あてに出した手紙には胸を打たされてしまいます。またそれが爆弾とは知らず、風船爆弾を作らされていた女学生の話などもありました。
ちなみにこの企画展は25/4/26~8/24まで開催されています。自宅に戻り写真を整理をしていて気づきましたが、写真①では24/4/26~8/24となっていますが25/4/26~8/24誤りのようです。実際、私自身、25年の4月に訪れました。
また余計なこととは思いましたが、これだけの見応えのある展示内容を見て、一過性の企画展示に終わらせるのではなく、是非、常設展として展示すべきでは?と資料館の職員の方にご提言させてもらいました。というのは最後の欄で記述しますが、秋田県にはこの種の戦争の遺跡が少ないのではという新聞記事があり、非常に気になったためです。
是非、機会あれば多くの方にも見て頂ければと思います。羽越本線羽後本荘駅から徒歩20分です。
少し気になること・・
今回、秋田に残された戦争の爪痕を振り返るために、過去に訪れた時の資料や新しく出来た土崎みなと歴史伝承館などを訪れました。まだまだご紹介しきれないところもあるように思えますし、文献などを調べると訪れていない遺跡も多くあるようです。今後、追加でご紹介させて頂きたいと思います。
ただいろいろと資料を調べていく中で、少し気になる記事がありました。25/5/17の秋田魁新報の記事によると、秋田県内の戦争遺跡の保存が低調で、秋田魁新報の調査によると県内の市町村や各教育委員会に行ったアンケートでは、文化財の指定・登録がゼロということです(25/5/17 秋田魁新報より)。
秋田県以外の都道府県ではどうなのかとなると、十分に把握はできていませんが、同じ秋田魁新報の記事では、他の市町村では指定史跡としての指定や保存に向けた動きが出始めているとのことです。
今後、日本人全員が太平洋戦争を知らない世代になる時が必ずきます。その時になってもこういった戦争の遺跡を残すことによって、戦争の悲惨さを伝えていくことができます。そして今年(2025年)戦後80年という節目の年がそのきっかけになればいいなあと思う次第です。
<参考情報>