作成:2025/6/5

岩手に残る戦争の爪痕  NEW!

<カテゴリ:戦争、文化・遺産> 


はじめに

 

 ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの戦争等、世界各地で争いが収まる気配がありません。アメリカの新しい大統領トランプ氏の発言はいろいろな局面で物議をかわしていますが、少くとも国家間の紛争を止めるためには、トランプ氏のような強力な指導力に期待したいところです。

未来都市銀河地球鉄道
賢治のふるさと花巻にも多くの戦争の爪痕が残されている(写真は「未来都市銀河地球鉄道」)

 ただそのトランプ氏をもってもなかなか手を焼いているようで(25/5月時点)、やはり戦争は一度始めてしまうと、お互いのメンツもあり容易に手を降ろすことが難しいようです。

 さてこの日本においては、先の太平洋戦争が終わって80年が経過しましたが、今でもその爪痕が日本中のいたるところに残されており、それをたどることをこのブログの重要なテーマの1つにしています。いずれ必ず日本人全員が戦後生まれとなる時代がきます。その時になって「太平洋戦争はなかった」などと言い出すことがないように、東北地方に残された戦争の爪痕を後生に残していくことが我々の出来ることだと思っています。今回は岩手県に残されている戦争の爪痕を取り上げたいと思います。

鬼剣舞
鬼の街として知られる北上にも多くの戦争の爪痕が残されている(写真は鬼剣舞)

 ご存知の通り、岩手県で一番被害の大きかったのは釜石でした。そして二番目に被害が大きかったのが花巻といわれています。釜石には当時、東北で唯一の製鉄所を抱えていた軍需都市であったという背景があったためのようですが、なぜ花巻が標的になったのでしょうか?。花巻市には軍需工場や鉄道の要地であったことなどが原因のようです。鉄道を破壊することにより物流を止めようとするものです。花巻市に爆弾投下があったのは、昭和20年8月10日ですから終戦のわずか数日前です。大量の爆弾が投下され、花巻駅とその周辺が破壊されました。宮沢賢治の生家も焼失したようです。

 今回は岩手県に残る戦争の爪痕の第1弾として、花巻市、北上市、奥州市といった岩手県の内陸地方に残っている戦争の爪痕に焦点をあてたいと思います。その中でも特に私が特に衝撃を受けた遺物等を取り上げてご紹介させて頂きたいと思います。


花巻に残る戦争の遺跡<①花巻防空監視哨聴音壕跡>

花巻防空監視哨聴音壕跡
花巻防空監視哨聴音壕跡

 最初、この遺跡を文献で見た時には、正直、何をするものか理解できませんでした。なんとなくこういう役割なんだろうなあと最低限の知識を持って現地に出向きました。現地で実際の物を見て、また説明文を読んで概ね理解できたものの、やはりこれがどれだけ役立ったのかは完全に理解できませんでした。現地の案内板によると「防空監視哨は敵機の来襲をいち早く感知し、軍や警察に報告するためのものでした。高い所から双眼鏡で監視するのが一般的ですが、中には円筒形の壕の中に入り、飛行機の接近する音を聞き分ける聴音壕を有する監視哨もありました」と書かれていました(現地の案内より)。すなわち実際にこの上に乗り「目」で、そしてこの中に入り「耳」で敵機の来襲を監視していたのです。「目」は理解できるのですが、「耳」の方は現物を見ても理解できませんでした。

花巻防空監視哨聴音壕跡
花巻防空監視哨聴音壕跡

 特殊な訓練を受けた軍人がとぎすまされた耳で飛行機の音を聞き分けていたのでしょうか。もしくはこの中に特殊な機器があるのでしょうか。残念ながら写真の通り、中は雑草が生い茂っているだけで、そのような器具はありませんでした。記録によると、戦時中、特に聴覚と視力の良い男女が選ばれ、24時間3交代制で監視をしていたようです。壕の中は様々な音が遮られ飛行機の爆音が増幅されたと書かれていました。また現地の別の説明文には、「アメリカではレーダが開発され、電波によって情報を得ていた時代に、日本の設備は大変遅れていたことがわかります」とありました(現地の説明文より)。終戦間近の絶望の状態で作られたかと思うと改めて戦争の不条理さを感じた次第です。

 なおこのように円筒形の壕の形状がほぼ完全な形で残っているのは、全国的にも珍しいようです。もちろん私も初めて見ました。いつまでも後世に残していきたいものです。JR花巻駅から徒歩10分の地にあります。

 これ以外にも花巻市内には戦争の爪痕がいくつも残されています。代表的な遺跡をご紹介させて頂きたいと思います。

碧祥寺のマタギ資料館とお米地蔵

②やすらぎの像

 花巻空襲で多数の死傷者や建物の損害がありましたが、その後、花巻市は多くの方の努力により見事に復興しました。このやすらぎの像は市民から平和祈念の像建設の話がもちあがり建立されたものです。JR花巻駅前です。

盛岡の街並みを歩く(北盛岡)

<③ゼロ戦のプロペラ>

 花巻空港のターミナルビルの近くに設置されています。戦時中、北海道大学の教授の指導のもと着氷の研究が行われていたものを、教授の死後、提供をうけたもののようです。当時の最新鋭の戦闘機であったゼロ戦の三枚羽のプロペラと説明文に書かれていました。JR花巻空港駅からバスで約7分

盛岡の街並みを歩く(鉈屋町)

<④花川橋の爆撃跡>

 花巻空襲の戦跡として「花川橋」に残された爆撃跡です。花川橋の改修工事で、痕跡は消失の危機にありましたが、寸前のところで保存となり、痕跡を残した状態での改修となりました。JR花巻駅から徒歩18分のところにあります。


花巻防空監視哨聴音壕跡(花巻市若葉町2-14-15)

花川橋の爆撃跡(花巻市花城町3)



北上市に残る戦争の遺跡<①北上市平和記念館>

北上平和記念館
北上平和記念館

 北上と横手を繋ぐJR北上線の藤根駅(注:下記ご参照)から2.5km、徒歩で約35分のところに北上平和記念展示館があります。戦争遺跡ではありませんが、是非、ここには多くの方に足を運んで頂きたいと思っています。この北上平和記念館には、この地区で教員の弁を取っていた故高橋峯次郎氏宛てに戦地の教え子から寄せられた軍事郵便物7000通、そして衣服、教科書など当時の資料約400点あまりが展示されています。

 元々、高橋峯次郎氏は藤根地区の小学校教育のほかに青年学校、少年団、青年団の指導にあたっており、多くの教え子を戦地に志願させました。そして彼らを励ますために故郷の状況などを「眞友」という通信誌で送り続けていました。それに対する返信として高橋峯次郎氏宛てに届いた手紙がこの記念館に展示されています。

北上平和記念館
北上平和記念館

 その中には、戦況が刻々と悪化しているにも関わらず、家族を心配する気持ちや、田畑の作柄、悪化する戦況、友人の戦死、特攻隊員として出撃を待つ気持ちなどがつづられていました。とても20歳前後の青年が書いた文書とは思えない、家族や故郷への思いなどにあふれたもので、思わず胸が熱くなってしまいます。軍の検閲があったに違いない中、このような文章を私には書けるだろうかと思うと、とても書けそうにありません。

 そして教え子を戦場へ送りこんだにも関わらず、戦争に負けてしまい、多くの教え子を失うことになった高橋峯次郎氏の気持ちは察するにあまりあります。是非、次にご紹介する平和観音堂と合わせて、多くの方に訪れて頂きたいと思います。

北上平和記念館
北上平和記念館

平和観音堂
平和観音堂

 ②平和観音像 

 北上平和記念館から1.5km、徒歩15分のところに平和観音堂があります。実はこの平和観音堂のことは北上平和記念館で初めて知り、当日、追加で訪問しました。

 教え子を軍人として戦地に送りこんだ高橋峯次郎氏は、戦争に負けて多くの教え子を失うことになり、慟哭と後悔と苦悶の日々を送ることになります。そして昭和26年、平和条約発効の年に高橋峯次郎氏は私財を投じてこの平和観音堂を作ることを決意し、工事に着手しました。この梵鐘には藤根地区から出征したものの、生きて帰ることができなかった138名の戦没者の名前が刻まれています。毎年8月15日には有志による供養が行われているようです。

 

平和観音堂
平和観音堂

岩手陸軍飛行場跡
岩手陸軍飛行場跡

③岩手陸軍飛行場跡

 北上線立川目駅(注:後述ご参照から3.5km、徒歩で50分のところに陸軍飛行場跡があります。昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、岩手県内にも飛行場を作ろうという運動が起こり作られたものです。翌年昭和13年に完成しました。当初は操縦者の訓練用飛行場の位置づけでしたが、その後、戦況は悪化、最終的には特攻隊が飛び立つことになりました。ただその特攻隊は目的地に至らず不時着となったようです。その後、終戦を迎え、米軍により残存していた飛行機が破壊されました。今では飛行場跡の近くには工業団地が造成されており、かつてこのあたりに軍の飛行場であったとは思えない変貌ぶりです。

岩手陸軍飛行場跡
岩手陸軍飛行場跡

JR北上線立川目駅
JR北上線立川目駅

<ご参考:現地へのアプローチについて>

 

 上記でご紹介した北上に残された戦争の爪痕ですが、いずれもJR北上線沿いにあるのですが、北上線のダイヤが非常に少ないため(平日の昼間は7時間待ち!)鉄道のみで向かうにはかなりの制限があります。私はJRの駅から徒歩で向かいましたが、帰りの列車の時刻がギリギリとなってしまい、あやうく予定の列車に乗り遅れそうになり最後はほとんど駆け足でした。右の立川目駅の写真は上りの列車が迫る中、あわてて撮ったもので、斜めってしまいました。

JR北上線藤根駅
JR北上線藤根駅

  そこでお勧めが岩手県交通の横川目線バスです。この横川目線はJR北上駅前からJR横川目駅前までをほぼ北上線沿いに運行しており、しかもダイヤも概ね1~2時間あたり1本と非常にありがたい存在です(といっても1時間に1本というのは、都会のダイヤに慣れた方には耐えられないと思いますが(笑))。JR北上線の平日7時間待ちに比べれば、まさに岩手県交通さまさまです。

 

岩手県交通立川目線(平日)

岩手県交通立川目線(土日祝日)


奥州市に残る戦争の遺跡<①太平洋戦史館>

太平洋戦史館
太平洋戦史館

 世界遺産で有名な中尊寺からバス8分のところに太平洋戦史館があります。この太平洋戦史館はこれまでご紹介してきた戦争の遺跡と違い、太平洋戦争の激戦地であったニューギニア(インドネシア)等で今も残されたままになっている兵士の遺骸その他の捜索活動を行っているという、まさにまだ戦後は全然終わっていないということをまざまざと実感させられる戦史館です。

 館長さんの話によると海外で亡くられた方の遺骨が見つかっているのは半数にも満たないようです。一見、こういった活動は戦士を送り出した国家の仕事のように思えるのですが、1975年に厚生省(当時)は、戦後の賠償問題や対日感情などを背景として遺骨の捜索活動を終了させてしまいました。それを引き継ぐ形で民間のNPO法人が、

太平洋戦史館
太平洋戦史館

①送り出した兵士を故国にお迎えしたい

②旧戦場に残された危険物を除去して子供たちが裸足で駆け回る環境を戻したい

といった願いで現地に出向いて遺骨や危険物などを撤去する活動を続けられています。 

館内には厚生省(当時)等の感謝状などの他、現地から持ち帰った水筒や飯盒のふた等が所狭しと展示されています。館長さんからこういった話をお聞きすること約1時間、危うく戻りのバスの時間も忘れるほどでした、

 平泉駅から岩手県バス瀬原行きに乗り約8分(もしくは一ノ関駅からですと同じく瀬原行きバスで約33分)、終着の瀬原が最寄りのバス停になります。なおこの太平洋戦史館を見学するにあたっては、事前予約が必要ですのでご注意ください。

太平洋戦史館
太平洋戦史館


そして第2弾・・

 

 岩手県で最も被害の大きかった釜石での戦争の爪痕について、現在、原稿を整理中です。完成次第、ご紹介させて頂きたいと思います。

 

 

→「岩手を歩く」に戻る