作成:2025/7/15

院内油田と八橋油田~秋田の油田の歴史を辿る~ NEW!

<カテゴリ:歴史・文化>


はじめに

 

  大変にお恥ずかしい話ですが、かつて秋田が「石油王国」と呼ばれていたことを最近まで知りませんでした。そもそも日本で原油を産出していること、特に新潟・秋田・北海道の日本海側で原油を産出していることも詳しく知りませんでした。

日本一大油田発祥の碑
八橋油田(泉外旭地区)近くにある「日本一大油田発祥の碑)

 このことを知るきっかけになったのは、今年2025年が戦後80年にあたるということもあり、現在、東北地方に残された戦争の爪痕を整理しているのですが、秋田では主に秋田市土崎地域が空爆の対象になったこと、そしてその背景がこの原油の産出にあることを知ったことです。秋田に残された戦争の爪痕については別ページでご紹介させて頂きたいと思いますが、まずは秋田での原油産出の盛衰についてご紹介させて頂きたいと思います。ちなみに右の写真は後でご説明する秋田市八橋地区での原油発掘現場に向かう途中で偶然に見つけた「日本一 大油田発祥の碑」です。いやはやなんともスケールの大きな内容の碑ですね(笑)。


秋田鉱業博物館で日本の原油事情について学ぶ

 

秋田大学鉱業博物館
秋田大学鉱業博物館(1991年冬撮影)

 改めて申し上げるまでもなく、日本はエネルギーの自給率は極めて低く、10%以下と言われています。特に石油は9割以上を中東諸国からの輸入に依存しており、政情が不安定になるとガソリンの値段に奔走されるというのはご承知の通りです(そして本稿を作成中に、アメリカがイランの核施設を空爆するという心配なニュースが舞い込んできました)。

 一方、国産の原油の割合は1%未満と少ないのですが、それでも量にすれば約5億リットルとそれなりの量です。特に新潟・秋田・北海道の日本海側で多くの原油を産出しており、いまでこそ生産量の1位は新潟県ですが、かつては秋田県が1位だったようです。明治維新の後、日本の近代化が進み、ここ秋田市の八橋地区で採油に成功、これをきっかけに秋田県に多くの油田が発見され、一時は国内原油産出量の7割を占めるようになりました。

秋田大学鉱業博物館
秋田大学鉱業博物館(2025年撮影)

 そのため秋田県は石油王国と呼ばれるようになり、秋田県の経済並びに日本の産業の発展に大きく貢献してきたということです。上記でご紹介した「日本一 大油田発祥の碑」には、「昭和21年から昭和36年において全盛期を誇った」と書かれています。確かにその頃がピークだったようで、昭和40年に入ると急速に産油量が落ち込み、多くの油田が廃業、現在では新潟、北海道に次ぐ国内3位に甘んじるようになりました。

 こういった日本での鉱物や原油の産出について、秋田大学鉱業博物館で学ぶことができます。私もまず秋田大学の鉱業博物館に立ち寄って、事前の知識を得ました。石油採掘にあたっての事前調査~精製にいたる作業工程、原油の分類などが説明されています。なお後でわかったことですが、サイエンスボランティアと呼ばれる方がいらっしゃって、事前に申込をすると丁寧に解説をして頂けるようです。JR秋田駅から2km、徒歩で約25分です。

秋田大学鉱業博物館
秋田大学鉱業博物館


現在も稼働中の「八橋(やばせ)油田」を訪れる

①八橋油田(泉外旭地区)
①八橋油田(泉外旭地区)

 現在でも産油が続いている数少ない油田として秋田市外旭川地区にある八橋油田を訪ねました。八橋油田は、国際石油開発帝石秋田鉱業所が産油しており、最盛期には25万キロリットル(約160万バレル)の産油を誇っていて国内産油量の7割以上を占めていました。現在では1万キロリットル未満に減少していますが、それでもこれまで採油した産油量の累計は国内1位とのことです。採油した原油は主に土崎港地区と船川地区のプラントで精製され日本各地に出荷されてきました。実はこれが原因で戦時中、しかも終戦前日の1945年8月14日に土崎地区の製油所が空襲を受け、多くの死傷者が出ることになりました。このことについては是非、別の機会に触れたいと思います。

 

泉外旭川駅
泉外旭川駅※2021年開業

 さて秋田市内には八橋地区を始め幾つかの油井(石油を採掘するために掘られた井戸)がありますが、今回、秋田大学鉱業博物館に最も近い外旭川地区の油井を訪れました。ただ油井に向かうバスがないようなので、例により地図を拡げ最寄りの駅を探します。奥羽本線の泉外旭川駅が近そうです。ここが旅の起点となりますが、「あれ?、こんな駅、前からあったっけ?」、どうも見覚えのない駅です。少し調べてみました。このあたり一帯は、新興住宅地であることやショッピングセンターの建設予定があるということで、2021年に請願駅として開業したようでした。秋田駅と土崎駅の距離が長いため中間駅が必要ということも背景にあったようです。なお泉外旭川駅から油田へ向かうバスはありませんが、近くにある秋田厚生医療センタまでバスがあるようです。

八橋油田(泉外旭地区)にある油井
②八橋油田(泉外旭地区)にある油井

 もちろん「東北を歩く」としては歩きです。距離にして2.6km、徒歩で約35分です。途中で上記でご紹介した「日本一 大油田発祥の碑」を偶然に見つけるなどして徒歩で向かうこと30分、想定より早く油田に到着しました。このあたりには幾つかの油田が残っているようですが、実際に現役で稼働しているのを見ることができるのはここだけのようです。事前に写真等で見ていたのでイメージは出来ていましたが、やはり実際に見ると、ある種の感動を覚えました。中東地区等でよくみかける大規模のプラント設備があるわけでもなく、かわいらしい鳥の形をしたポンプが、小さい体でけなげにもひたすら汲み上げているのです。

 周りに会社の事務所があるのかと思いましたがありませんでした。

 写真ではわかりづらいかもしれませんが、写真①と②では確かにポンプが上下に動いているのをご確認頂けると思います。その横を東北地方の幹線道路である国道13号線が通っているのですが、油田の案内があるわけでもないので、地元の方以外は砂漠でもないこの地(しかも国道の横)でよもや原油を汲み上げているとは気づかれないかもしれません。ただ鳥の形をしたポンプが休むこともなく、恐らく量にしてごくわずかな原油をもくもくと汲み上げているのです。少し物悲しくなる光景をずっと見入ってしまいました。



かつて最大の産油量を誇っていた「院内油田」を訪れる

 

JR羽越本線仁賀保駅
JR羽越本線仁賀保駅

 秋田駅から羽越本線に乗り日本海側を下ること約1時間、仁賀保という駅があります。この近くにかつて国内最大級の院内油田がありました。平成7年に閉山ということですから、結構、最近まで稼働していたことになります。当時の設備が残されており近代産業遺産に指定されているということを聞き、出向きました。

 この院内油田は明治の初期にアメリカの地質学者ベンジャミン氏により発見され、大正に入って大日本石油鉱業(後に昭和石油と合併して、ENEOSグループの一部になった)が採油開始、試堀を繰り返した結果、最盛期の昭和10年には年間11万klの産油を達成しました。不夜城とも呼ばれていたことがあったようです。その後、徐々に産油量が減少して、残念ながら平成7年には閉山となりました。

院内油田ポンピングパワー棟
院内油田ポンピングパワー棟

 平成19年に経済産業省の「近代産業遺産」に登録され、「院内油田やぐらR31A」の跡地等が公開されています。

 そのようなかつての大油田の跡を確かめるべく足を運びました。旅の起点は羽越本線の仁賀保駅です。少し余談になりますが、この仁賀保駅は2005年に象潟町と仁賀保町と金浦町が合併してできた「にかほ市」の中心駅です。当時は象潟町が人口も多く比較的有名だったので、合併後の市の名前は象潟市になるものと思っていました。ちなみに「にかほ」は秋田県で唯一のひらがなの市町村名のようです。

 さて仁賀保駅で調べると院内油田までは距離にして3.4km、徒歩で約1時間15分でした。十分、歩きの範囲内です。早速、院内油田に向かって歩き始めました。

巨大なポンプ(ポンピングパワー棟内)
ポンピングパワー棟内に設置された巨大なポンプ

 実はもっと山道を登っていくのかと思いましたが、比較的平坦な道で、また結構、舗装もされているので車で来る方も多いようです(むしろ歩いて行く人はいない?(笑))。その日は車はもちろん誰に会うことはありませんでした。ただ標識も整備されており、迷うことはありませんでした。途中、山根館跡への案内がありました。廃墟ファンとしてはこの山根館跡はどういうものかちょっと気になりましたが、いやいや今回は時間もないので院内油田に集中することにします。

 ただ比較的平坦な道ではあるものの、それなりに山に入っていきますので、出会いがしらに熊に遭遇しないように、念のため鈴を鳴らしながら歩きました(幸い、熊には遭遇しいませんでしたが)。

ポンピングパワー案内板
ポンピングパワー案内板

  歩くこと1時間弱、予定より早く院内油田跡に到着しました。そこには大きなやぐらと赤い色の建物がありました。

 まず赤い建物です。これはポンピングパワー棟と呼ばれており、案内によると、ポンピングパワーの垂直回転運動をカムシャフトで水平方向の往復運動に変換し、ワイヤーロープ経由で再度垂直方向の往復運動に変換され、採油装置を動かしていたというものです。この仕組みは浅層油田に適しており、院内油田一体は浅層油田であったため、数基のポンピングパワーでほぼすべての油井から採油していたとのことです(現地の案内文より)。なんというシンプルでかつ経済的な仕組みでしょうか。ひょっとしたら中東地区にあるような本格的なプラント設備であればもっと深層から多くの原油を採ることができるのではとつい考えてしまいます。

R31Aやぐら
R31Aやぐら

 ポンピングパワー棟から少し登ったところに大きなやぐらがありました。現地の案内(下記写真ご参照)によると、このやぐらはR31Aと呼ばれていて、Rはロータリー式の意味のようです。掘削には綱堀りとロータリー式の2種類あり、ロータリー式はパイプの先につTけたビット(刃)が開店しながら岩石を削り堀りくずしていく方式のようです。そして31は院内にあった採堀ケ所のうち31番目を示とのことです。なんとこのような設備が31箇所以上あったということになり、さぞや壮観だったことでしょう。Aは会社の名前のようです(いずれも現地の案内文より)。このR31Aを中心とした院内油田からは、1日平均で400l、最大で1日あたり1000lの採油量があったとのことです。先にご紹介した八橋油田が発見されるまでは最大の産油量をほこっていました。今ではその役目を終えて、やぐらの上から静かにこのあたりの安全を見守っているようで、非常に感慨深いものを感じました。映画などで大規模なプラント設備による採油は見たことがありますが、このような間近でやぐら設備を見るのは初めてです。帰りの仁賀保駅までの徒歩の時間と列車の発車時刻を考慮して、役目を終えたやぐらにギリギリまで見入っていました。

 そして再び、熊*に警戒を払いながら、徒歩で仁賀保駅までの帰路につきました(*心配性でお恥ずかしい限りです。実は以前に熊に遭遇したことがあります。加えて歩きによる一人旅なので、最近の熊出没情報を聞くとどうしても警戒しがちになってしまいます。幸い、帰りも熊には遭遇しませんでした)

R312やぐら案内板
R31Aやぐら案内板


そしてシェールオイルの採取と実用化へ

秋田大学鉱業博物館の展示より
秋田大学鉱業博物館の展示より

  秋田大学鉱業博物館の資料によると、従来型の油田や天然ガスは既に生産量のピークを迎えており、その可採年数は50~60年と考えられているようです。それに対して従来型の油田よりも深い地層にある頁岩(シェール)層にある石油、いわゆるシュールオイルが注目を浴びています。シェールオイルの存在は以前より知られていましたが、生産コストや技術上の課題からなかなか実用化が進んできませんでした。ただ2010年代ころより急速に技術が発達して、米国を中心に増産が実用化されてきました。

 日本においても今回訪問した院内油田の近く、鮎川油ガス田(由利本荘市)にて国内で初めてシェールオイルの採掘に成功しました。埋蔵量は決して多いわけでもなく、採算性に課題が残ってはいますが、この日本においてシェールオイルが採れたことは非常に素晴らしいことです。未来に希望を持ちました。今後、間違いなく従来型の石油に代わる資源の開発が本格化するものと思われます。是非、この秋田で発掘したシェールオイルが将来の日本の資源の礎になることを祈念します。またご存知の通り、秋田県は都道府県別の人口減少率が最も高い県です。是非、このシェールオイルの実用化が、秋田の活性化につながればいいなあと思う次第です。

 

 

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