失われた秘湯~湯の倉温泉~


 私が東北地方に通うようになりもうすぐ40年になります。これまでに遭遇した出来事の中で最も衝撃的だったのは、もちろん2011/3/11東日本大震災です。丁度、その前の年にも沿岸沿いを歩いた風光明媚な地域が、津波で流されていく映像を見た時には言葉を失ってしまいました。そして同じく言葉を失ってしまった出来事が、宮城県栗駒山中にある秘湯「湯の倉温泉」が地震で水没してしまったことです。

 栗駒山中には、この湯の倉温泉を始めとした多くの秘湯・名湯があり、かねてより訪れたいと思っていました。そしてそれが実現したのは2007年の夏でしたが、翌年2008年に発生した「岩手・宮城内陸地震」により、なんと温泉自体が水没してしまったのです。本当に衝撃でした。ここでは地震が発生した前年に悪戦苦闘して温泉にたどり着いた記憶を思い起こしたいと思います。

 

 宮城県と山形県と秋田県の県境にある栗駒山中には、いわゆる秘湯と呼ばれる多くの温泉が点在しています。ただ湯浜温泉や湯の倉温泉といった最奥の温泉は最寄りのバス停からのアプローチが長く、湯浜温泉にいたっては、最寄りのバス停から徒歩3時間半という距離に位置しています。「鉄道」と「バス」と「徒歩」だけしか移動手段を持たない者にとっては、往復するだけで1日を要するという難攻不落の温泉です。実は片道3時間半はなんとか許容範囲ではありますが、同じ道を往復のべ7時間歩くとさすがに単調となるため、これを避ける方法を考えていました。

世界谷地
世界谷地

 そこで考えたのは、行きは栗駒山に登り、その帰りに温泉に立ち寄るというコースです。それであればもちろん総歩行距離は増えますが、道のりも単調ではなくなります。2007年の夏はこれらも含めて、「加美地方特集」と銘打って、この地方一帯を中心に廻ることを計画しました。ちなみに加美地方とは宮城県西部の地域を呼んでいます。栗駒山、世界谷地、温泉に加えて、薬莱山、鉄魚といった、かねてより訪れたかった場所も加えました(薬莱山、鉄魚については別項をご参照頂ければと思います)。お盆の季節でもあったので宿はどこも満室でした。そこで栗駒山登山⇒湯浜温泉(日帰り入浴)で1日、世界谷地⇒湯の倉温泉(日帰り入浴)で1日というプランを立てました。

 世界谷地から湯の倉温泉に向かったのが、2007年8月10日でした。ちなみに世界谷地は栗駒山中にある広大な高層湿原です。この時のことは、別途、ご紹介したいと思います。

湯の倉温泉
湯の倉温泉(2007年8月撮影)

 さて世界谷地を見終えた後は、待望の湯の倉温泉に向かいました。ここの温泉は左の写真をご覧いただければおわかりのように、車ではいけません。もちろん電気も通っていません。そのためランプの宿として有名でした。ガイドによると、泊まり客は国道側から車で入り、最寄りの駐車場で車を止めて、そこから山道を歩いてたどり着くようです。私が取ったルートは山側の世界谷地から下り、湯の倉温泉に向かうルートです。ただこのあたりは、虻(アブ)が多いことで有名で、特にその頃は盛夏ということもあり、アブの大群に苦しめられました。とにかくアブがまとわりついてきて、肌がむき出しになっている手の甲に襲いかかってくるのです。蜂(ハチ)は人が襲わない限り、基本は襲ってはこないのですが、アブはその習性として匂いに敏感なため、人に対して容赦なく襲い掛かってきます。アブに刺されたわけではないのですが、体に当たるだけで痛く、最後はほとんど駆け足状態で湯の倉温泉にたどり着きました。 

湯の倉温泉
湯の倉温泉(内湯から露天風呂を望む)2007年8月撮影

 なんとか湯の倉温泉に辿りつき、一刻も早く名物の露天風呂に入ろうとした時です。宿のご主人から「アブには注意してください」という衝撃の言葉を頂戴しました。

 

ここでもアブか!

 

 そうです。右の写真をご覧いただければおわかりのように、名物の露天風呂は、内湯を出て川沿いに少し離れたところにあります。しかし露天風呂である以上、アブと対峙することは避けられません。意を決して内湯を出ると、早速アブが襲いかかってきました。湯船までまっしぐらに走り、10秒ほど湯につかり、内湯に戻るという荒業を敢行しました。もちろん裸です。とにかくアブに刺されるのを避けるのと、アブが宿に入らないようにすることで頭が一杯でした。

 一転して、内湯ではゆっくりすることが出来て、旅の疲れを十分に取った後、帰路に着きました。アブとの闘いの思い出しかありませんが、温泉自体は素晴らしく、今度はアブのいない春か秋に再度訪れようと思った次第です(ちなみに冬季は休業とのことでした)。 

 それから約10ケ月後の2008年6月14日、最大震度6強の「岩手・宮城内陸地震」が発生しました。東日本大震災の最大震度が7ですから、最大震度6強というのは、これに匹敵する大地震です。下流が堰き止められ堰止湖ができてしまい、なんと湯の倉温泉がその堰止湖に水没してしまったのです。報道で掲載された写真を見た時は言葉を失ってしまいました。幸い、当温泉での死者はいなかったようです。なんとか再建ならないものかと思っていましたが、最終的に再建を断念されました。廃業を決断された際の宿のご主人の「先代たちに顔向けできない」という記事を読みました。さぞや無念だったと思います。私もアブのいない春か秋に再度訪れて、夏に10秒しか味わえなかった露天風呂に入り、ゆっくりしようと楽しみにしていたので、大変に残念でした。

 

 私も頻繁に東北地方を訪れているので、ひょっとして東日本大震災や「岩手・宮城内陸地震」に巻き込まれていたかもしれません(実際、「岩手・宮城内陸地震」が発生した年の春か秋に再度訪れることを検討していました)。改めて自然の脅威を感じる出来事になってしまいました。

 


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