作成:2025/9/21

 

山形に残された戦争の爪痕(25年7~9月)  

 

<カテゴリ:戦争、文化・遺産> 


戦後80年

 

 今年(2025年)は戦後80年にあたります。今でも戦争の爪痕が日本中のいたるところに残されています。ブログの今年の重要なテーマの1つとして、それらの爪痕をたどり記録として残すことをあげました今回は山形に残された戦争の爪痕を訪ねました。

⇒関連記事「戦後80年

 

陣没軍馬慰霊塔
陣没軍馬慰霊塔

  山形県においても戦争で甚大な被害を被りました。酒田の空襲や当時、飛行場近くにあった東根、山形、真室川などで犠牲者が出ました。また山形県は長野県についで2番目に多くの満州への移住者がいたとされており、移住の途中での殺害や残留孤児が発生したと言われています。

 ただ文献等を調べていく中で、東北地方の他の県と比べて山形県に残されている戦争の遺跡が少ないようです。その理由について調べてみると、どうも全国の県庁所在地の中で、秋田市と山形市は空襲の対象となる焼夷弾攻撃をうけなかった県庁所在地であったと言われています。その理由は戦略的な判断と書かれていた文献もありました。ここで戦略的な判断というのは優先順位のことでしょうか。もし戦争が続いていたら次のターゲットとして甚大な被害になっていたということでしょうか。

 

 こういった背景もあり、今回、東北地方に残る戦争の爪痕を巡る中でも、ここで取り上げる戦争遺跡が少ない県になってしまいました。いえ、きっとまだまだ十分に調べ切れていないところがあると思います。是非、そういった場所がわかれば追加で訪れて、その記録を残すようにしていきたいと思います。そして今年2025年の戦後80年を過ぎた後も、本ブログの重要なテーマの1つとして戦争の遺跡を巡る旅を続けていきたいと思います。

 ここでは、これまでに訪れた山形県に残る戦争の爪痕をご紹介させて頂きたいと思います。

 

①戦争資料館(農村文化研究所、置賜民俗資料館)

 

旅の起点米坂線成島駅
旅の起点米坂線成島駅

  米坂線の成島駅より徒歩25分のところに、戦争資料館があります。ここは元幼稚園だったところを改築されたということです。農村文化研究所、置賜民俗資料館をかねた設備となっていました。戦争資料館は、2015年に開館、自称「日本一小さな戦争資料館」として別棟の八畳一間の部屋に約50点の資料が展示されていました。

 ここでは置賜地区出身の兵士に関連した資料や軍事郵便などが展示されていました。それらの内容をすべてご紹介しきれないので、今回初めて見たもの、初めて知ったことを2点ほどあげさせて頂きたいと思います(もちろんご存知の方であれば周知のことかもしれませんが)

 

特攻警察の講義資料

未来都市銀河地球鉄道
置賜民俗資料館(戦争資料館、農村文化研究所)

  ご存知の通り特高警察は、社会主義運動、共産主義運動などを取り締まった秘密警察のことで、1911年に設置されました。治安維持法制定後は、強力な権力のもと、拷問などを行い、民主主義運動を弾圧してきました。

 そしてなんとその講義資料がこの戦争資料館に残っているというのです。特高警察は戦後の1945年10月にGHQにより廃止となり、当時の資料はすべて廃棄されたと聞いていたので、これは驚きです。実際、私が出向いた数日前に、TBS系列のテレビ番組の取材を受けたようで、その内容が放映されたようです。

 原文はかなりぼろぼろのため読むことが出来ませんでしたが、そのコピーに書かれている内容を見る限り、当時の弾圧の背景となる思想などを伺い知ることができました。

 

戦死した兵士の家族あてのおわび状

自称「日本一小さな戦争資料館」
自称「日本一小さな戦争資料館」

 資料館に「戦死遺族に対する詫び状」、「遺骨引き渡しの手紙」、「戦死報告」等の手紙が展示されていました。差出人はいずれも属する部隊長です。日付は昭和16年になっていました。この種の手紙を見るのは初めてです。日々、戦況が悪化しく中で、多くの兵士が玉砕の道を辿るしかなかった記事などを見てきたので、少なくとも戦争が始まって間もない頃には、このように1人の若い命が大事に扱われていた時期もあったのだと大変な驚きでした。

 

 自称「日本一小さな戦争資料館」としながらも、上記以外に当地出身の兵士に関連した資料や戦争の経緯などが盛りだくさんに展示されており、ここではご紹介しきれないくらい見応え十分でした。展示されている内容も大変に貴重なものでした。丁度、私が訪れていた時に、ここの資料館の資料を借りていた方が返却手続きにこられていました。

  またここには民俗資料館、農村文化研究所としての展示もあり、十分に見る時間もなかったので、是非、もう一度訪れたいと思うような資料館でした。

 帰り際に館長さんからお茶を頂きお話を伺うことができました。館長さんの平和への熱い思いが伝わるような内容でした。例により列車の時刻の関係から米坂線の発車時刻のことをお話すると(なにしろ米坂線は1本逃がすと2時間待ちになります!)、なんと米沢の駅まで送って頂くという申し出を頂きました。大変にお世話になりありがとうございました。

 ちなみになぜ米坂線の最寄りの成島駅ではないかというと、もちろん米坂線の便数が少ないこともありますが、米坂線は米沢近辺で大回りしているため、米沢駅に直接向かった方が早いということでした(右図ご参照)。

 

②陣殉軍馬慰霊塔

 

陣没軍馬慰霊塔
陣没軍馬慰霊塔

  山形駅から2.9km徒歩40分のところにある薬師公園のはずれに「陣殉軍馬慰霊塔」という軍馬の慰霊塔があると聞き、出向きました。ただこの慰霊塔を何時誰が建立したのかよくわかっていません。

 最初、訪れた時に引っ掛けたネットの記事では「日清戦争や日露戦争、第1次世界大戦において山形県から出征した軍馬への感謝と敬意を表すために、大正11年に山形県が建てた」とありましたが、別の日に再度検索すると「第二次世界大戦において散華された山形県出身の戦没者と軍馬を供養し」とありました。要は戦争後に建立されたということです。このあたりはAI検索の限界なのでしょうか。どなたかご存知の方がいらっしゃればお教え頂ければ幸いです。私ももう少し調べてみて再度掲載したいと思います。

 

軍馬のレリーフ
軍馬のレリーフ

  いずれにしても軍馬といえば、先日、訪れた石巻にある平和資料館でお聞きした話を思い出しました。

第2次世界大戦(太平洋戦争)では全国から50万頭もの馬が駆り出され、兵士や重い荷物を運んだり、トラックが進めないようなぬかるんだ道や川の中でも物を運んだということで大変に重宝されたこと。

・ただその馬のほぼすべてが戦地で死んでしまったとのこと。全国にある馬頭観音は戦争へ赴く馬の無事を祈ったり、戦場で亡くなった馬を供養する対象として存在する場合が多い。等々などです。

⇒関連記事「石巻にある平和資料館」

 

 少なくともこのように軍馬だけを慰霊するための供養塔は初めて見ました。大変に貴重な戦争遺跡ではないかと思いました。写真だけでは、後ほどご紹介する「雪部隊戦没者慰霊碑」や「第三十二連隊碑」と同じ大きさに見えますが、遠くからもそれとわかるような非常に大きな慰霊塔でしたなお東日本大震災後は倒壊の可能性があるため、写真以上に近寄る事ができませんでした。

 

 ご参考までにこの薬師公園は、山形駅から2.9km徒歩40分と少し離れたところにあります。最寄りの駅といえば、北山形駅の方が1.4km徒歩19分と少し近いのですが、北山形からの列車の接続状況がよくなかったので、私の場合は山形駅から往復しました(あまり歩いてくる人はいないと思うので、何の参考にもならないと思いますが(笑))。

 

③雪部隊戦没者慰霊碑

 

雪部隊戦没者慰霊碑
雪部隊戦没者慰霊碑

  陣没軍馬慰霊塔と同じ薬師公園の中に、雪部隊戦没者慰霊碑があります。この雪部隊は主に東北地方出身者で構成された部隊でした。中国大陸からニューギニア島にかけて激戦を行うものの、多くの犠牲者が出てしまいました。終戦後、遺骨を日本に持ち帰る作業をするものの、未だに多くの遺骨が現地に残されたままのようです。

 板垣元山形県知事が本部隊に属していたこともあり、この碑の建立に尽力されたとのことです。

 

 

④歩兵第三十二連隊碑

 

歩兵三十二連隊碑(霞城公園内)
歩兵三十二連隊碑(霞城公園内)

  山形駅の近くに山形市を代表する憩いの場、霞城公園がありますが、その公園内に第三十二連隊碑があります。この第三十二連隊は当初、秋田に連隊の本部が設置されていましたが、その後、この山形市の霞城公園に移されました。部隊はここ霞城公園を中心にして周辺地域の整備を行い、山形市の近代化に大きく貢献したと言われています。

  日露戦争や満州事変などに部隊を派遣、その後、沖縄戦では圧倒的な米軍の攻撃の中、最後まで戦ったとされています。碑を見ると投降もしくは玉砕することなく、終戦を迎えたとのことです。この激戦をきっかけにして、沖縄県と山形県は交流が始まり、沖縄県には山形県出身の戦没者を慰霊するための「山形の塔」が建てられました。また交流が始まり今でも続いているとのことです。 

 

⑤上山城郷土資料館「戦後80周年 戦争と上山」企画展

 

「戦後80周年戦争と上山」企画展
「戦後80周年戦争と上山」企画展

 今年2025年は終戦80年にあたるということで、各地でイベントが行われていました。山形県に出向いていた時も、丁度、上山城郷土資料館で「戦後80周年 戦争と上山」という企画展が開催されていたため、急遽、予定を変更して、立ち寄りました。

 企画展ではここ上山から兵士になった方の話、防空壕設置、学童疎開、軍事郵便などが展示されていました。ここでもそれらの内容をすべてご紹介しきれないので、今回初めて見たもの、初めて知ったことを2点ほどあげさせて頂きたいと思います(もちろんご存知の方であれば周知のことかもしれませんが)。

 

戦陣訓(上山郷土資料館)
戦陣訓(上山郷土資料館)

戦陣訓

 ・ご存知の通り、戦陣訓は戦場での軍人の行動規範を示した訓令です。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事勿れ」という下りが有名で、これが玉砕や自決に至る一因になったと言われています。聞いたことはあるのですが、その戦陣訓を初めてみました。 

 

学童疎開の真実

 ・これもご存知の通り、学童疎開は戦争末期にこどもたちを都市部から郊外や農村へ移動させたことです。子供たちは慣れない土地での共同生活や見知らぬ友人など、非常に過酷な体験をさせられました。それでもこの学童疎開は子供たちを守るための措置だと思っていました。ところがここで展示されていた内容によると、戦争が長引いた場合に将来の軍人の人材確保が学童疎開の狙いとしてあったとのことです。大変な衝撃を受けました。

 

戦後80周年主催者挨拶
戦後80周年主催者挨拶

  企画展の入り口に主催者のあいさつがありました。その中に、戦後80年が過ぎ、これからは戦争を語り継ぐのは戦争を知る世代からではなく、戦争を知らない世代から語り継いでいく必要があるという一文がありました。きっとそういうことなんだろうなあと改めて思った次第です。

 

 

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