作成:2025/8/5
石巻市にある平和資料館(NEW!)
~質・量ともに圧倒される内容~
<カテゴリ:歴史・文化>
石巻市の平和資料館について
宮城県石巻市の西のはずれに平和資料館という施設があります。資料館といっても専任の職員や看板があるわけでもなく、外観は普通の民家です。ここでは元女川高校の校長であった佐々木氏が「平和の尊さを後生に伝えたい」という思いで、自宅を開放して、これまで集めてきた資料を展しています。そのため(多分ですが)石巻の観光案内や博物館一覧的な冊子には掲載されていません。従ってここでは、「石巻市にある平和資料館」と称させて頂きます。
ところがここの展示品は4,000点にもおよび、それらが部屋の中はもちろん廊下や階段に所狭しと展示されており、量、質とともに圧倒される内容でした。
佐々木氏によると寄贈も含めて長年にわたり集めてきたということです。もともとはガラスケースで常設展示をしていましたが、それだと見て終わりなので、毎年、テーマを決めて企画展示をするようになったとのことです。今年(2025年)は特攻隊に関する企画展示が行われていました。ちなみに去年は学童疎開、それ以前にも満州移民、軍馬などの特集をされてきたとのことでした。
東北を歩くでは、今年が終戦80年という節目の年にあたるので、これまでに訪れてきた戦争遺跡の整理や、今まで出向いていないところを訪れたりしてこのブログに掲載するようにしてきました。今回、佐々木氏が自宅を開放している平和資料館に出向いてきましたので、内容をご紹介させて頂きたいと思います。
平和資料館を訪れる
平和資料館の場所は宮城県石巻市内となります。ただ石巻というと漁業の町で有名ですので沿岸地帯を思われる方が多いと思いますが、佐々木氏のご自宅はかなり内陸側になります。最初、電話で予約をした際(あとで触れますが事前予約が必須です)、電車とバスと徒歩で向かうと申し上げたところ、駅からは遠いので鹿島台駅からタクシーに乗ってくださいとのことでした。鹿島台といえば沿岸どころか内陸を走る東北本線の駅ではありませんか。平成の市町村合併により石巻市も大変に大きくなり、宮城県では4番目に面積の広い市になったようです。
佐々木氏に教えて頂いた住所をもとに地図で探してみる限りでは、鹿島台から向かうのもかなり遠そうです。タクシー代が高くなりそうですし、例により帰りは徒歩を予定しているので、あまり遠いと帰れなくなります。再度、地図を調べたところ、JRの駅では石巻線の前谷地駅が最も近そうです。ただ普通の個人宅を訪ねるので、また看板もないとのことですので、道に迷わないように行きは前谷地からタクシーを使いました。ちなみにタクシーの運転手は佐々木氏のご自宅をご存知でした。
さて訪れて知ったことですが、事前にHP等で自宅を開放されているということは承知していたのですが、通常の博物館同様、複数の来館者が自由に展示品を見学して、来館者からの質問に応じて佐々木氏が説明頂けるものと想定していました。ところが完全予約制で来館者個々に説明頂くというものでした。特に私の場合、1人旅なので私1人のために長時間にわたり時間を取って頂きました(約2HR)。大変にお手数をかけてしまいました。
なお佐々木氏からはご自身の自宅も含めてここでの展示内容はすべて撮影OKということでしたが、さすがに個人のご自宅を本ページに掲載するのは憚れますので、ここでは展示品のみの掲載とさせて頂きます。
当日は佐々木氏よりの説明をお聞きした後、展示内容の見学をしました。今回、それらの膨大な展示内容等をどのようにご紹介しようかと考えた場合、とてもその内容すべてを紹介できそうにないため、ここでは私が改めて認識を新たにしたことを中心にご紹介させて頂くことにしたいと思います。
私がこの平和資料館で改めて感じたのは、とにかく戦争について実は何も知らなかったということです。今回の終戦80年を機会に、東北地方に残された戦争の爪痕を廻ってきて、それなりに情報は仕入れてきたつもりでしたが、実は何も知らないことを改めて痛感しました。ここでは佐々木氏のお話を聞いて、改めて理解が深まったこと(もしくはこれから理解したいこと)を中心にご紹介させて頂きたいと思います。もちろん知っている方から見れば当たり前の話だと思いますが・・
満州での惨劇
満州で起きた惨劇についてお話をお伺いしました。大変にお恥ずかしい話ですが、満州というと、当時満州と呼ばれていた中国の北東にある地へ多くの日本人が移住したこと、戦争に敗れて満州から引き上げの際、多くの残留孤児を生んでしまったというイメージしかありませんでした。ところがその実態は、日本人居留民や開拓団への虐殺、集団自決など数々の悲劇です。平和資料館の近くにある鹿島台地区(元々タクシーを乗ろうとしたJR駅周辺です)からも多くの住民が満州に移住しましたが、終戦間際に攻め込まれ500人近くが集団自決したとのことです。その時、地域を留守番をしていたのが、婦人、子供、老人のみでしたので、拳銃等の自決する手段がなかったため、拳銃以外の手段を使ってお互いの命を奪い合ったということです。
また別の部隊では食料と引き換えに女性を差し出したという史実もあるようです。赤ん坊が泣き叫ぶので母親が自ら絞め殺したという話も書いてありました。それらの状況を思い浮かべてみると、すべてが地獄だったに違いないと暗澹たる気持ちになります。葛根廟事件、麻山事件、佐渡開拓団跡事件が代表で、最近まで歴史の闇に埋もれていた事実もあるようです。特に麻山事件、佐渡開拓団跡事件は、戦争が終わってから1945年8月27日に発生しています。これら以外にも多くの悲劇がこの満州で発生しました。鹿島台でも毎年その時期がくると、供養が行われているとのことです。
国策で満州に移住していたにも関わらず、27万人中、8万人もの方が命を落としたと言われています。関東軍からの援護もなく、集団自決せざるを得なくなった状況など、すべてが戦争の理不尽さであると感じざるを得ません。まず上記の3つの事件を詳しく知ることから始めたいと思った次第です。
軍馬の悲劇
戦場での兵器といえば、銃や大砲などを思い浮かべますが、第2次世界大戦(太平洋戦争)では馬、犬、鳩などといった動物も兵器として扱われていました。特に馬は負傷した兵士や重い荷物を運んだり、トラックが進めないようなぬかるんだ道や川の中でも文句一ついわずに物を運んだということで大変に重宝されました。全国から50万頭近くの馬が戦地に送りだされ、東北でも多くの馬(軍馬)を輩出してきました。ただそのほぼすべてが戦地で死んでしまったとのことです。佐々木氏によると1頭のみ内地に戻ることができて、それは岩手県の軽米の馬だったそうです。全国にある馬頭観音は戦争へ赴く馬の無事を祈ったり、戦場で亡くなった馬を供養する対象として存在する場合が多いようです。
軍馬の話は聞いたことがありますが、そういえば戦争で馬がどういう運命にあったことは考えたことはありませんでした。またお恥ずかしい話ですが、これまで数多く訪れてきた馬頭観音には、戦争で死んだ馬を供養するという意味もあったことも知りませんでした。これから出会う馬頭観音については、その言われを確認するようにしたいと思います。ちなみに鳩は伝書鳩として情報伝達の手段として利用されていました。これについては聞いたことがありました。
特攻隊の悲劇その他について
今回の企画展示のテーマである特攻隊についてもお話をお伺いしました。この地区から特攻隊員として18歳で戦死した相花さんは、それまで育ててくれた継母のことを兄の手前もあり「お母さん」と素直に呼べなかったことをずっと後悔していて、最後の遺書に詫びを書いています。胸につまされる文面でした。
其の他、宮城県出身者16人を含む3000人の兵士が亡くなった戦艦やまとの資料が展示されていました。
これまで聞いたことがある内容や、今回初めてお聞きした内容など、非常に盛りだくさんの2HRでした。改めて戦争について実は何も知らなかったということを自覚させられました。佐々木氏は、戦争の惨さを感じることができるのは、レプリカではなく現物を見て頂くことだ仰っていましたが、確かににその通りでした。来年は終戦の悲劇を予定されているとのことです。もしタイミングあれば再度訪れたいと思います。
なお展示品には寄贈品も含まれているということで入館料は無料ですが、2日前までに予約をすることが必須です。
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<関連情報>
①来年はBRT気仙沼線を使って
平和資料館の最寄りの駅であるJR前谷地駅は、BRT気仙沼線の始発駅でもありました。昨年(2024年)、初めてBRT大船渡線と気仙沼線に乗った時(「BRTで行く奇跡の一本松」ご参照)にBRTについて調査していたのにうっかりしていました。
なお前谷地駅~柳津駅間は鉄道路線が存続しているものの、JR石巻線との接続の利便性を向上するために、BRTも運用しているようです。また前谷地~柳津間はノンストップ、かつBRT専用道ではなく一般道を走行する区間のようです。
もし来年もこの平和資料館に訪れる機会があれば、BRT気仙沼線を使おうかと考えています。ただ写真の通り、柳津~前谷地間は非常に便数が少ないので注意が必要そうです。