叢塚 【2023/4月~9月】

<カテゴリ:歴史、文化>


徳泉寺の叢塚
徳泉寺の叢塚(2023年撮影)

叢塚(くさむらづか)とは

 叢塚とは過去に発生した飢饉厄病で亡くられた方を供養するために建てられた供養塔です。飢饉は天候不順等により農作物が育たず、食糧難に貧し、餓死するというものです。過去には食料不足により何十万人の方が亡くなったこともありました。今の日本においては考えられないことですが、近世において紛れもない事実としてあったのです。特に東北地方では、昔から「やませ」と呼ばれる6月~8月ごろに吹く北風の影響により、それが顕著で、いわゆる江戸時代の三大飢饉と呼ばれる「享保」「天保」「天明」の飢饉においては多くの犠牲者が発生しました。

金勝寺の叢塚
金勝寺の叢塚(2023年撮影)

  1782年(天明2年)から発生した天明の飢饉は、江戸時代最悪の飢饉と言われており、その犠牲者の数は90万人を超えたと言われています。また1833年(天保4年)から発生した天保の飢饉でも東北地方に多大な被害をもたらしました。天保4年は長雨による凶作、天保6年は冷害と洪水による不作、そして天保7年は冷害による大凶作が発生しています。この年は、春に季節はずれの雪により晴天の日が少なく、6月からはやませにより農作物に壊滅的な被害をもたらしました。この天保の飢饉により仙台藩の人口が、天保3年には50万人近くいたのが、天保10年には約40万人近くまで減ったと言われています。そしてこれらの犠牲者の遺骸は集められ荼毘に付せられたのですが、その霊を供養するために建てられたのが「叢塚」です。

   仙台市内には、特に天保の飢饉を中心に犠牲になられた方を供養するための叢塚が数多く残されています。これまでにも仙台市を訪れる機会があれば、近くにある叢塚を訪れてきました。今回、その中でも代表的な叢塚として天保の飢饉で犠牲になられた方を供養するための叢塚を5ケ所ご紹介したいと思います。仙台市内や東北地方には、これ以外の叢塚が数多く残されており、これからも機会あれば是非、訪れたいと思います。

 

仙台の三叢塚

 仙台市内には、天保4年の飢饉の一回忌に営まれた叢塚が、円光山光厳院大法寺、松月山桃源院、喜雲山光寿院の3箇所あり、仙台の三叢塚と呼ばれています。

 

(1)大法寺

 大法寺は浄土宗のお寺で、1608年に開山されました。1659年に伊達2代藩主忠宗公灰塚を祀るために、現在の地に移転してきました。叢塚は境内にあり、天保10年(1839年)に建立されました。現在の本堂は平成7年に改築されたようです。仙山線北山駅から徒歩7分のところにあります。

大法寺
大法寺(2023年撮影)
大法寺の叢塚
大法寺の叢塚(2023年撮影)

(2)桃源院  

 桃源院は天保7年の飢饉による餓死者を供養するために広瀬川沿いに建立された黄檗宗のお寺です。天保7年の飢饉は想像を絶するもので、仙台藩内のみならず、仙台にいけば何か食べ物があるだろうと、山形、福島方面からも多くの人が広瀬橋付近に集まってきたようです。記録によれば天保7年の飢饉は死者30万人にも及んだと伝えられています。桃源院は、飢饉による餓死者を供養するために、伊達家第7代藩主重村公の夫人観心院によって広瀬川畔沿いに建立されました。観心院はここで犠牲になった方々の供養をしたと言われています。それ以降、毎年お盆の季節8月20日になると灯篭流しが行われるようになり、今では仙台の夏の終わりの風物詩にもなっています。ただその起源はこのような凄惨な過去にあったことをどの程度の方がご存知でしょうか。

 なおここの叢塚は、他の叢塚と字体等は同じようですが、新しい石で作り直しされたようで、比較的新しい叢塚でした。地下鉄南北線河原町駅から徒歩10分のところにあります。

桃源院
桃源院(2023年撮影)
桃源院の叢塚
桃源院の叢塚(2023年撮影)

(3)光寿院  

 光寿院は地下鉄宮城野原駅より徒歩7~8分のところにある曹洞宗のお寺です。このあたり新寺町は、お寺が数多く点在しており、その中でもこの光寿院は門構えが広く、山門も禅宗とは思えない立派なものでした。最初、叢塚の場所がわからず、いろいろ探してみました。やはり見つけることが出来ず、お寺の方にお聞きしたところ、本堂の裏手にありました。さらにご丁寧に叢塚の場所までご案内頂きました。そして叢塚にはなんとお花が供えられていました。お寺の関係者でしょうか。もしくはご近所の方でしょうか。

光寿院
光寿院(2023年撮影)
光寿院の叢塚
光寿院の叢塚(2023年撮影)

天保9年に建立された叢塚

 仙台市内には、天保7年の飢饉から3回忌にあたる天保9年に建立されたとされる叢塚が2ケ所あります。それがJR仙石線榴ヶ岡駅の周辺にある「勝光山徳泉寺」と「松風山金勝寺」です。

 徳泉寺は浄土真宗、金勝寺は曹洞宗のお寺です。徳泉寺の叢塚は本堂裏手にある墓地の一角にありました。最初、場所がわからなかったので住職と思しき方に聞いてみました。「叢塚などをよくご存じですね」と言われ、それがきっかけで叢塚について少しお話をおさせて頂きました。ちなみに非常にお若い住職さんでした。

 

徳泉寺
徳泉寺(2023年撮影)
徳泉寺の叢塚
徳泉寺の叢塚(2023年撮影)

  徳泉寺の叢塚は今回ご紹介する5ケ所の叢塚の中で、叢塚について最も詳しい説明文が書かれていました。そこには「丙申殍氓叢塚之碑(へいしんふぼうそうぼうのひ)」とあり、以下の解説文が書かれていました(徳泉寺にあった説明文より引用)

「天保7丙申年(1836)は仙台藩主最大の飢饉で領内の死者は30万人に達した。食を求めて仙台城下に殺到する流民のため藩では城下数ケ所に粥小屋を設置し粥を施してこれをお救済した。榴岡天神下には徳泉寺、金勝寺の寺域に設けられたがこの2か所だけで2700人が死亡したという。死者は小屋近くに施穴を掘って投葬し、その上に立てたのがこの碑である。しかしその場所がどこであったのか今は知る由もない。は餓死者、は流民、叢塚は散らばっているものを一か所に集めることである。碑は徳泉寺、金勝寺ともに2基ずつ残っているが、当時飢饉がいかに凄惨な事件であったかを物語る貴重な石造文化財である」。これ以上、私が付け加える必要のない説明文です。 

金勝寺
金勝寺(2023年撮影)
金勝寺の叢塚
金勝寺の叢塚(2023年撮影)

 かつてこの日本においてこのような悲惨な出来事があったこと、そして特に東北地方の影響が甚大であったことを忘れることがないように、これからも機会があれば仙台市内または東北地方にある他の叢塚を訪れたいと思います。是非、皆さんも機会があれば叢塚を訪れてみて頂きたいと思います。


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