戦争の爪痕  

<カテゴリ:歴史、文化>


御嶽三吉神社にある防空壕
御嶽三吉神社にある防空壕(2023年撮影)

 2024年の新しい年が明けました。2023年はかつてないほど戦争とは何か、そして平和のありがたさについて改めて考えさせられた年となりました。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの戦争、そしてその報道の中で子供の泣き叫ぶ写真を見るたびに胸をしめつけられる思いがしました。

 そしてこの仙台も太平洋戦争の末期、1945年7月10日に大規模な空襲に見舞われました。いわゆる仙台空襲です。ここでは仙台のディープな一面をご紹介する第2弾として、今でも仙台の各所に残っている戦争の爪痕をご紹介したいと思います。

仙台御嶽三吉神社
仙台御嶽三吉神社(2023年撮影)

 (1)御嶽三吉神社【仙台に残された大規模防空壕】

 小さい頃に戦争世代の両親から、戦時中、空襲のサイレンが鳴るたびに近くの防空壕に潜り込んで、空襲が収まるまでじっと息をひそめていたと聞かされたことを今でも覚えています。今ではその防空壕の多くは埋められてしまったようですが、仙台近郊に比較的大規模な防空壕が残されていると聞き、是非、一度当時の様子を知りたいと思い出向きました。

 場所は仙山線の北山駅から徒歩4分程度のところにある御嶽三吉神社です。ちなみにこのあたり一帯は、お寺や神社が多く密集した閑静な住宅街でした。そして防空壕は境内の社務所から階段を降りたところにありました。

御嶽三吉神社にある防空壕
御嶽三吉神社にある防空壕(2023年撮影)

 早速、中に入ってみましたが、もちろん中は真っ暗で、蝙蝠でも出てきそうな雰囲気でした。持参した懐中電灯を使い進んで行きましたが、驚いたのは非常に大規模なものだということです。両親から聞かされていた防空壕は、地面を掘って板などで覆うといった家族数人が入れる程度の小さな穴ぐらのようなものを想定していました。ところがここに残された防空壕は、奥も深く地下道のような感じでした。また大きな水たまりもありました。見終えた後に社務所にいらっしゃった方にお聞きしたところ、当初は東北大学(旧東北帝大)の研究所の資料を保管するために作られたようですが、湿度が高いために実用化されなかったということです。

御嶽三吉神社にある防空壕
御嶽三吉神社にある防空壕(2023年撮影)

 そしてこれも後で知ることになるのですが、防空壕にも今回のような横穴式の防空壕と、私が以前よりイメージしていた小規模の竪穴式があるようです。そして防空壕に逃げ込んだにも関わらず犠牲になられた方が数多くおられ、その多くは竪穴式の防空壕に逃げ込んだためのようです。これについては後で少し述べさせて頂こうと思います。

 防空壕を知らない方も是非一度訪れてみては如何でしょうか。なお予約が必要という記事もありましたが、事前に確認したところ予約は不要でした。ただし懐中電灯は必須です。


仙台市歴史民俗資料館(1990年撮影)
仙台市歴史民俗資料館(1990年撮影)

 (2)仙台市歴史民俗資料館【旧歩兵第四連隊兵舎】 お勧め!

 仙台駅から徒歩12~13分のところにある榴ヶ岡(つつじがおか)公園の一角に仙台市民俗資料館があります。ここの資料館は、明治以降の農業や職人の道具・庶民の日用雑貨といった通常の民俗資料館としての機能に加えて、この建物自体が帝国陸軍の連隊のひとつで旧陸軍兵舎であったということもあり、軍隊や太平洋戦争を始めとした戦争に関わる展示が多いという特徴を持つ資料館だということです。この第四連隊は、太平洋戦争中、ジャワ島、マニラ、ビルマなど激戦地に送られました。現存する宮城県内最古の洋風木造建築物で、仙台市の有形文化財にも指定されています。かつての兵舎がこれだけの規模で現存するのも全国的に貴重なようです。兵舎にて寝泊りしていたところなどが忠実に再現されており、現存する兵舎と見るだけでも非常に貴重な建物であると思いました。

仙台市歴史民俗資料館
仙台市歴史民俗資料館(2023年撮影)
朝鮮戦役記念の碑
榴ヶ岡公園にある朝鮮戦役記念の碑(2023年撮影)


大橋から見る追廻地区(2023年撮影)
大橋から見る追廻地区(2023年撮影)

 (3)川内追廻地区【歴史に翻弄された街】 

 仙台駅から地下鉄東西線や観光バスを使って仙台市随一の観光地である仙台城跡に向かう途中、丁度、広瀬川を渡る大橋のほとりに大きな公園があります。いえ公園というよりも造成地といった方がいいでしょう。ここは太平洋戦争終戦の翌1946年に戦争の被害に遭われた方のために、当時国有地であったこの地に仮設住宅が建てられた場所です(正確には「場所でした」)。追廻(おいまわし)地区と呼ばれていて、多い時には、およそ620戸の世帯、4000人近くの住民が暮らしていました。ただあくまでも仮設住宅でしたので、雨風を凌ぐだけの建物のようだったようです。

追廻住宅ふるさとの碑
追廻住宅ふるさとの碑(2023年撮影)

 そして早速、翌年には行政とのボタンの掛け違いが発生しました。追廻地区をあくまでも「仮設の住宅」と考えていた仙台市は、1946年にはこのあたり青葉山一帯を対象に大規模な公園事業を決めたのです。仙台市は追廻地区を住宅扱いとしなかったため、住民たちは税金を納めていたにも関わらず、道路整備や水道などのインフラ整備は置き去りになってしまったようです。そしてそれが住民と行政との確執を生むようになりました。その後、1973年に仙台市は住宅の新築や増改築を認める方針を取ったため、新規の居住者が増えて問題が複雑化してしまいました。その後は、国も一緒になり地元との立ち退き交渉が続き、そして2023年2月に最後に残っていた1軒が解体されたのです。 

追廻地区(2023年撮影)
追廻地区(2023年撮影)

 最後の1件が立ち退いたころの記事を読むと、ようやく戦後が終わったと書かれていました。なんということでしょうか。行政を信じてその場所に住み着き、4000人近い人が暮らしていたコミュニティが、ちょっとしたボタンの掛け違いによりその土地を離れることになったのです。

 そして「ようやく戦後が終わった」その地の隣には、なにごともなかったかのように仙台城跡に向かうマイカーや観光バスが通り過ぎて行きます。公園では家族連れの遊ぶ姿があります。戦争の理不尽さを感じざるをえません。

 それにしても「追廻(おいまわし)地区」とは、なんという皮肉な名前なのでしょうか。

 なお2023年11月3日から12月24日まで、仙台メディアテークでこの追廻地区を思い起こす展示がされていました。私も見に行きましたが、改めて行政とのボタンの掛け違いを詳しく知ることができました。もしまた展示の機会があれば、是非、ご覧になることをお勧めします。

 

自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-
自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-(メディアテークにて)
自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-
自治とバケツと、さいかちの実-エピソードでたぐる追廻住宅-(メディアテークにて)


戦災復興祈念館
戦災復興祈念館(2008年撮影)

(4)戦災復興祈念館【仙台大空襲と防空壕

 仙台市は太平洋戦争の末期、1945年7月10日に123機のアメリカ軍B29による大規模な空襲に見舞われました。いわゆる仙台空襲と呼ばれている惨事です。この空襲は2時間近くにわたり1万発以上の焼夷弾が投下され、仙台市の中心部は焼け野原になってしまいました。そして1000人近くの尊い命が失われてしまいました。また文化財などの多くが失われたとのことです。

 その仙台空襲からの復興を祈念して、1981年4月に建てられたのが戦災復興祈念館です。舘内には、仙台空襲に関する展示と、藩政期から現在までの仙台の歩みが展示されています。場所は地下鉄東西線の大町西公園駅から徒歩5分のところにあります。

戦災復興祈念館
戦災復興祈念館(2023年撮影)

 かねてより首都東京から遠く離れた仙台の地になぜ空襲があったのか疑問に思っていましたが、この祈念館で理解をすることができました。そして防空壕についてもいろいろ知ることができました。

 

①なぜ仙台に空襲があったのか。

 太平洋戦争末期、アメリカを中心とした連合軍は大都市を狙う大規模な空襲を計画していました。その時の選定基準が人口の多い順だったようです。そして仙台は、当時日本の都市の中で13番目に人口が多かったことが空襲の対象になってしまった第1の理由だったようです。人口が多い都市を狙って空襲するとは、改めて戦争の残忍さを感じざるを得ません。人口の多さに加えて、都市の密集性や延焼性などが徹底的に分析され、仙台その他の地域を対象に空襲が行われました。ちなみに当日は、和歌山、堺、岐阜などでも空襲がありました。これはアメリカ軍による地方都市の空襲は、複数の都市に対して同時に行われるというのが通例だったためのようです。

戦災復興祈念館~竪穴式防空壕
戦災復興祈念館~竪穴式防空壕~(2023年撮影)

②防空壕について

 私の親の世代がそうだったのですが、太平洋戦争中、空襲が発生した時のために市民は防空壕を作り、空襲が発生した時はそこに逃げ込みました。ここ仙台だけでも約55,000もの防空壕があったようです。しかし仙台空襲では、防空壕に逃げ込んだにも関わらず、多くの命が失われてしまいました。なぜでしょうか。戦災祈念館の展示によると、防空壕には2種類あるようです。上記の御嶽三吉神社にある防空壕のように横穴式の防空壕、そして右の写真のような竪穴式の防空壕の2種類です。そして多くの方が亡くなったのは、後者の竪穴式の防空壕に逃げ込んだ方だったようです。

戦災復興記念館
戦災復興記念館(2023年撮影)

 元々、竪穴式の防空壕は、手造りで地下に穴を掘っただけでしたので、爆弾の直撃には弱く、また火が防空壕に入りこんだりする欠陥がありました。そのため竪穴式の防空壕に逃げ込んだ多くの方の命が失われることになりました。ただ当時の仙台市の中心地は建物が密集しており、竪穴式しか作ることができなかった事情もあったようです。そのため市としても竪穴式の防空壕を推奨していました。一方、当時から竪穴式の簡素な造りで命が守られるのかという疑問の声もあがっていたようです。

 そして全国各地の空襲被害を受け、竪穴式ではなく横穴式の防空壕を国が強化し始めたのは、仙台空襲のわずか12日後でした。なんということでしょうか。行政の指導に従い、竪穴式の防空壕を作りそこに逃げ込んだため命を失われる。誰が悪いということは申し上げるつもりは全くありません。改めて戦争の残忍さ、不条理さを実感した次第です。

 ちなみにこの戦災復興祈念館は公共の設備ということもあり、入場料が120円と超格安です。さらに地下鉄の1日乗車券を提示すると90円になります。今の時代、90円の入場料は聞いたことがありません。それでいてこの中身の濃い展示内容です。是非、皆さんも一度訪れて頂くことをお勧めします。


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