安積(あさか)開拓事業跡と郡山の街並みを歩く【訪問日:2016~2023年】

<カテゴリ:文化・遺産>


郡山駅
郡山駅(2021年撮影)

 福島県中通りにある郡山市は、福島県で2番目に人口の多い都市です。東北新幹線の停車駅でもあり、また福島空港からのアクセスもよく、福島市のベッドタウンとして大きく発展をとげています。むしろ人口だけでいえば福島県の県庁所在地である福島市よりも多く、東北6県の中でも3番目に人口が多い大都市です。ちなみに東北6県の中で1番人口が多い市町村はいわずとしれた仙台市ですが、2番目に多い市町村をご存知でしょうか。実はあまり知られていないのですが、同じ福島県のいわき市です。従って東北6県の中の都市で人口の多い順は、①仙台市、②いわき市、③郡山市となり、上位3市に福島県の市が2つ含まれていることになります。しかもいずれも県庁所在地ではないという非常に興味深い状況です。

夏の風物詩采女祭り
郡山市夏の風物詩 采女祭り(2016年撮影)

 さてその郡山市ですが、今でこそ大きく発展をとげていますが、かつては水に恵まれず、農作物にとって不毛の地でした。というのも福島県西部にある猪苗代湖から西へ流れる川が1本しかなかったため、猪苗代湖より西にあった会津地方は潤っていたものの、東にあったこの地域は水が少ないため農作物の育成には適していなかったのです。

 そこでなんと当時の偉人たちは、50kmも離れた猪苗代湖から水を引こうという壮大な計画を立てたのです。こうして出来た水路は郡山中にいきわたり、かつての不毛の地が水田になったのです。

 かねてよりこの壮大な事業に興味があり、初めて郡山市の開成地区を訪れて以来、何度かこの地を訪れました。そして訪れた点と点をつなぎ合わせてようやく線となることが出来ました。是非、その開拓の歩みとともにその時の遺産をご紹介したいと思います。

安積開拓発祥の地
安積開拓発祥の地。「開成館」や開拓の入植者の住宅があり、疏水開さく事業の中心地となっている。郡山駅から徒歩35分

 なおこの安積疎水事業を始めとした開拓の歴史は、平成28年(2016年)に「未来を拓いた一本の水路~大久保利通の最後の夢と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代」として日本遺産に登録されました。私としては、ようやく安積開拓事業の点と点が線としてつながったと思っていましたが、実はまだ訪れていない場所があることがわかり、新たな目標ができました。これらについては再度第2弾としてご紹介したいと思います。

 ただ日本遺産については、少し思うところがあり、本稿の最後に触れています。もしよろしければご覧頂ければ幸いです。

 

安積開拓入植者住宅
安積開拓入植者住宅。安積開拓のため、鳥取藩の入植者が結成した「鳥取開墾社」の副頭取の住宅。郡山駅から徒歩35分

 時代は明治維新にさかのぼります。明治維新後まもない明治4年(1871年)、当時の外務卿岩倉具視を団長とする使節団は日本の近代化を推し進めるために欧米諸国を1年10ケ月にわたり視察を行いました。いわゆる「岩倉使節団」と呼ばれている一行です。その時、欧米との国力の差に衝撃を受けた一行は、帰国後、富国強兵をスローガンに日本の近代化を推し進めました。特に開拓と産業振興こそが発展の礎であるということで、使節団に参加していた大久保利通(当時の内務卿)、安場保和(福島県令)は一足先に帰国して、この安積疎水事業に着手しました。

久留米地区入植者の碑
久留米地区入植者の碑。郡山駅から徒歩55分。

 そして明治6年(1873年)、地元の有志により「開成社」が結成され、本格的な開拓が始まりました。その時に開拓事務所として建てられた「開成館」は当時としては画期的な西洋風の建物だったようです。「開成館」を始めとした当時の入植者の住宅は、郡山駅から徒歩40分のところにある「安積開拓発祥の地」に集結しています。

 そしていよいよ猪苗代湖から水路を引くという世紀の大事業が始まったのです。事業総費用はなんと当時の国家予算の1/3にもなる大事業でしたが、その時に奔走したのが、岩倉使節団として同行していた大久保利通でした。その大久保利通の手腕と情熱により予算が計上されました。

 ところが事業開始直前に開拓事業を推進していた大久保利通が暗殺されるという、とんでもないハプニングが発生しました。いわゆる「紀尾井坂の変」と呼ばれている事件です。動機については、安積疎水事業とは直接的には関係ないようですが、事業推進に大きな影響を及ぼしました。

開成山大神宮
開成山大神宮。安積開拓に従事した人々の心の拠り所として設置された神社。郡山駅から徒歩35分

 しかし大久保利通は暗殺される直前まで開拓にかける情熱を語っており、その志を知る人たちにより、明治政府初の国営農業水利事業「安積開拓・安積疎水開さく事業」として実現する運びとなりました。

 明治11年11月に全国からその家族も含めて約2000名が集められ、この地区に入植してきました。その先陣を切ったのが九州の久留米藩でした。郡山駅から徒歩55分の地には、久留米藩からの入植者のために、故郷の水天宮の分霊を祀った久留米神社と、久留米地区入植者の碑があります。そして入植者の心の拠り所となったのが、当時、伊勢神宮から唯一の分霊を許可された開成山大神宮でした。

開拓率先の碑
開拓率先の碑
安積開拓官舎
安積開拓官舎

ファンドールンの碑
ファンドールンの碑

 明治12年、開成山大神宮で安全を祈願する起工式が行われました。そして50km離れた猪苗代湖から日本の背骨ともいえる奥羽山脈を越えて水路を引くという世紀の大事業が始まったのです。ただ明治維新まもない当時の日本の技術では、このような疎水を作る技術もなかったため、オランダからファン・ドールンという技師が招かれました。ドールン設計のもと、最先端の機器を使い綿密な検証が行われ、その結果、猪苗代湖の水を安積地方に流しても、それまで会津地方へ流していた水の量は減らないと立証されました。

 そして最初に建設されたのが、猪苗代湖から流れる水を会津側と安積側に調整する「十六橋水門」の建設です。これが完成するといよいよ奥羽山脈越えのトンネル作りです。ここではオランダから招かれたファン・ドールンにより日本で初めてダイアマイト技術が使われました。ここで使われた技術は後の日本三大疎水と言われている「那須疎水」と「琵琶湖疎水」の建設の大きな礎になったようです。

麓山公園(麓山の飛瀑)
麓山公園(麓山の飛瀑)。明治15年(1882年)に郡山の開成社等の有志が安積疏水の通水を記念して造った滝。 郡山駅から徒歩8分の麓山公園内にある。

 そして工事着工から約4年度の明治15年、水路52.1kmの安積疎水は完成しました。その完成式は郡山市内の麓山公園内にある麓山の飛瀑で行われました。安積疎水の完成により乾いた大地は潤い、米の作付面積は3倍近くにひろがり、収穫量は10倍以上にも増えたとのことです。

 さらに明治の後期になると、疎水の落差を生かした発電所が建設され、日本で初めて高圧電力を23km離れた郡山に送電することに成功させました。

開成山公園にあるSL
開成山公園にあるSL

 明治維新まもないころに、まだ技術力において欧米諸国とは雲泥の差であったにも関わらず、50kmも離れた猪苗代湖から水を引くという発想、その実現に向けた情熱、そして全国から集められた2000名もの開拓者たちの心意気、どれも驚かされるばかりです。皆さんも是非、今では東北地方第3の都市にまで発展した郡山市の礎が、こういった先人たちの心意気にあったことに思いをはせてみては如何でしょうか。

 駅から徒歩約40分と少し離れていますが、開成山公園あたりにご紹介した遺跡が集まっているので、比較的に訪れやすいと思います。

郡山市公開堂
郡山市公会堂(郡山駅から徒歩10分)

そして日本遺産認定へ

 この安積疎水事業を始めとした開拓の歴史は、平成28年(2016年)に「未来を拓いた一本の水路~大久保利通の最後の夢と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代」として日本遺産に登録されました。実はお恥ずかしい話ですが、日本遺産のことは最近まで知りませんでした。

 私としては、ようやく安積開拓事業の点と点が線としてつながったと思っていましたが、実はまだ訪れていない場所が日本遺産として登録されていることがわかりました。新たな目標ができたのですが、少し思うところがあります。

 日本遺産に登録されている遺跡の中で、これまで訪れたことがない遺跡を中心にして2023年に訪問したのですが、いずれも安積開拓事業との関連がよくわからなかったということです。例えば写真に掲載した「郡山市公会堂」は、説明によると1924年に建造されたとあり、そのモダンな外観は開拓の意気込みが表現されているとあります。確かに建造物自体は優れたものと思いますが、安積疎水の事業とはほとんど関係が薄いように思えるのです。

旧福島県尋常中学校
旧福島県尋常中学校(郡山駅から徒歩45分)2016年撮影 注;2021-22年に発生した地震のため、2023年時点で改装中

 旧福島県尋常中学校も同じです。説明によると、「明治22年に福島県旧尋常中学校として完成しました。内外装とも随所に洋風技術が使用されており、当時の県下では最も進んだ洋風建築でした」(郡山市ホームページより)と書かれているのですが、安積地区の開拓事業との関係がわかりませんでした。

 改めて日本遺産のホームページを見てみました。そこには「日本遺産は、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリを日本遺産として認定するものです」とあります(文化庁ホームページ)。すなわちこれまでの「重要文化財」「史跡」と言った「点」にすぎなかった文化財行政を、ストーリをつけて「面」として活用するというもののようです。これはこれまで述べてきた「点と点が繋がり線になった」という私自身の感覚と通じるところもあり、おおいに共感を覚えるのですが、あまり関連性の少ないと思われる史跡まで関係つけることはないのかなと思いました。そういった遺跡はこれまで通り、点として重要文化財など指定するだけでいいように思えます。SNSなどの評判を見ても「世界遺産の二番煎じ」「知名度がない」といった声もあるようです。是非、今後の改善に期待したいものです。

 

金透記念館
金透記念館(金透小学校150周年)郡山駅から徒歩8分

奇跡の出会い

 その中でも奇跡とも思える出会いがありました。2023年はこれまで訪れたことがなかった遺跡で、日本遺産に登録されている遺跡を中心に訪れたのですが、その中の1つが右の写真にある「金透記念館」です。実はここは開館時間帯が平日木曜日の13:00-16:00、しかも見学を希望する週の火曜日までに事前に予約が必要といった具合に、会社勤めの私にはほとんど訪問が困難な史跡です。実際、その日(23/10/29 ※ちなみに日曜日です)も外観の写真を撮るだけでいいと思い訪れたのですが、なんと当日は金透小学校の150周年の記念行事が行われており、金透記念館も臨時でオープンしていました。おかげで普通では訪れることが出来ない金透記念館を見学することができました。

 ただ書かれていた説明が、開成館とともに明治初期に出来た古い小学校跡ということで、郡山市公会堂同様、安積地区開拓との関係がよく理解できませんでした。

 それにしても結構、年配の方も多いことには驚かされてしまいました。私などは還暦を過ぎており小学校卒業から半世紀も経過しています。当時の友人も名前と顔など一致するわけもなく、このあたりの人の結びつきはすごいなあと思った次第でした。

 

 今回、ご紹介した遺跡以外にも日本遺産に登録された遺跡があります。また機会あれば第2弾としてご紹介したいと思います。 


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